高校を卒業するまでの四年間暮らした北海道の千歳には支笏湖という観光地があり、冬場にはそこで氷凍祭りというイベントが開催されていました。
氷点下の中、氷で作られた像が並ぶ神秘的なイベントでした。自分がこの像を観れたのはずっと後のことで。
というのも、真冬の移動手段は車しか無く、中高生だった自分はバスを使って遠く寒い場所に行くまでも無いかと。夏であれば自転車か単車で行けたのですけれど。
それに、その氷の像というのが著作権関連で揉めていたという噂も面倒臭く。像は雪から作るのでなく、氷点下の中で水を撒いて凍った産物らしく。その製法と表現方法を確立した芸術家の断りも無く実施していたそうで。
当時、アート系に興味ある地元の知人に聴いても、氷凍祭りは興味の対象外だったようです。
社会人になって数年経った頃、夏の終わりくらいに北海道へ帰省した機会がありました。
流れ者な町であった千歳に残っている友人は少なく、親の車を借りて近場の観光を楽しむ程度でした。
当時、自分の母は油絵に凝っていて、地域の文化活動にも関わっていたそうです。自分の出身校の先生とも繋がりがあったらしく、その中には自分の尊敬していた国語の平田先生も含まれていて。
この平田先生というのがナカナカの変わり者で。国語の試験で記述式の回答があると、滅多に×を付けられない性格で。
文章に対する解釈は一通りでなく、模範的回答以外の解釈にも理解を示してしまうというか否定は出来ない方でした。その度に考え込んでしまうそうで。
こういった先生は高校よりも大学の方が似合うのかと思いつつ、頭ごなしに否定しない姿勢に見習うべき点は多かったです。立場や権力で生徒を押し込める教師が普通で。
あと、先生の趣味がまた面白かったんです。オーディオマニアで、高価な機材を入手しては奥さんに怒られてしまうこともしばしばだったそうで。当時はまだCDが市場に出回り出したばかりの時代でした。
そんな中、録音の良いCDを自分は先生から沢山お借りしていて。アルバイトで稼いだお金をJazzのCDに注ぎ込んでいた自分もお返しにCDを貸したりで。教師と生徒の関係としては不適切だったかも知れませんが、自分の全く興味なかったジャンルやアーティストに触れられる機会を頂けて。こんな曲や表現方法もあるんだなぁと。
国語という限られた科目に置くには勿体ない先生でした。「表現と解釈」といった、もっと漠然としたテーマの方が似合っていたかと。これは文化や人種や言語を越えたコミュニケーション方法でもあって。
話を戻さねば。
その平田先生と繋がりのある芸術家が市民ホール(千歳市民文化センター)で個展を開くらしく、暇を持て余していた自分は母の勧めで個展に行くことに。母の造った大作も市民ホールの階段に飾られているそうで。
何の期待もしていなかった個展ですが、これが面白かったんです。印画紙を応用した作品は他に観たことが無く、独特な世界観。イマジネーション膨らむ作品群。
作者の方はその場には居なく、作者の奥さんがギャラリーを受け持っていて。
その奥さんと少しお話をさせてもらったところ、作者とのトークベントが後日あると。
あの作品の雰囲気は冨田勲の月の光に近いなぁと、地元のレコード屋さんでCDを入手し後日の夜も同じ場所へ。
(この記事を綴っている理由も、昨夜観た夜叉ヶ池で冨田勲さんの作品が使われていた故です)
作者のトークイベントも楽しかったです。参加者がとても少なかった中、プロのパーカッションプレイヤーの方と物の叩き合い的なセッションもあったりで。
作者は竹中敏洋さんという方で、元々は千歳で中学校の教師をしていたものの、作品制作の世界に没頭したかったらしく、周りの反対を押し切って芸術家の道に進んだらしく。
しかし、その世界で認められるチャンスは何年も訪れず、極貧生活が続いたそうで。教師時代に「先生先生」と持ち上げてきた方々からも冷たい視線を受けるばかり。
ご自身が嘗て製作した作品の一つだけを頼りにしばらく生きていたそうです。イベントではその作品を持参されていました。例えの難しい作品は表面のゴツゴツした少し伸びたタケノコのようなモニュメントというか。
全てを失った中、その作品を腕に抱えて真冬の夜汽車に揺られたこともあったと。
その中に自慢話は含まれておらず、いまは人里離れた場所で作品造りと。
頂いたパンフレットを観たところ、例の氷凍祭りで争っていたらしい芸術家でした。
個展の中で目に付いた作品の中に「偽善者」(記憶が曖昧なのですが、そんなタイトル)というのがあって、それが特に印象的でした。真っ黒の背景の中に細い白い線で描かれた弧。垂れ下がった真ん中には首が吊るされた細い人のシルエット。
静かなる抗議な作品だったようです。あの盗作に対する抗議だったのかなぁと。
どうにも気になる竹中さん、東京に戻る前日にご自宅へ車で伺ってみました。何のアポも無く向かった夕方、会えなくても仕方なく。
大きな地図を観ながら走ったルートは、高校時代に幾度かバスで経験した風景でした。盤尻というエリアはその先に市民スキー場があり、学生はナイター券を安く入手出来たので友人達と伺っていて。
しかし、冬の雪景色とは一味違っていました。夏の終わり頃の枯れはじめた土地というか。枯れてはいないものの、夏の始まりの勢いある緑とは別の衰える緑。
民家が少ないエリアだったので、竹中さんのご自宅はすぐに見つかりました。通り過ぎた道を引き返し、手作りっぽい木製のご自宅へ。(木造というより木製でした)
玄関をノックしてみると、先日の奥さんが。居間に案内されて竹中さんと世間話。そのままアトリエへ。アトリエといっても屋外でした。ご自宅の裏には川が流れていて。
冬になると、ポンプで川から引いた水を撒き、作品作りに没頭すると。
ポンプや照明に必要な電源周りの工作や電線の引き回しもご自身でやられたそうです。この時代にこんな人が生きているのが斬新でした。元々は何も無かったらしき場所なハズ。
真冬の北海道でこんな人里離れた場所、一歩間違えたら簡単に死ねてしまいます。ゼロからここまで続けてこれたことに見習うべき何かが大きく。幾度の冬をここで越してきたのだか。
どんな話をしたのかほとんど覚えていないのですが、この会話だけは覚えています。
SUKIYAKI:時々変な夢を想てしまうんですよ。空を飛んでいる夢なんですけれど、地上に戻りたいと必死に泳いだり電線を捕まえようとかするんですけれど、酷い時なんて宇宙の彼方で一人っきりで、
竹中さん:そのままそこに居ればいいじゃないか。
自分は人付き合いが下手な面を自覚していて、一人で居たい時はもちろんあります。それでも人里が恋しくなる部分もある勝手な奴で。
何でそんな会話になったのか自分でも不思議でありましたが、ここで二人いることも不思議でしたし、竹中さんの生きざまへの質問だったのかなぁと。
その次のお正月だったか、ご丁寧な年賀状が竹中さんから届きました。
自分のこと、覚えていてくれたのが嬉しく。謎の妙な東京の若造でしかなかったハズなのに。
大切に残していた年賀状だったものの、自分の引越しの機会でしか目に掛かる場面が無く。いまはこの部屋の何処にあるのか。
竹中さんとお会いした数年後に自分は一時的に北海道へ戻っていました。
当時は養父が単身赴任で、冬に向かう季節の北海道で一人暮らしだった母をドライブに幾度か連れまわしたり。
共通の話題が乏しい母に「そいえば、竹中さんどうしてる?」と。「アメリカで個展開催に向かう飛行機に乗るところで吐血したそうよ」と。
そういえば、竹中さんはお酒好きだったなぁと思い出しました。
そのうちまた挨拶に伺いたいなぁと思いつつ、その機会も無く北海道をまた離れた自分。
時々、竹中さんのことは検索していたんです。
2002年に亡くなられたことも後から知りました。
そして、専業主婦向けの昼のドラマでもあった「ダンプかあちゃん」の題材になったご夫婦が、あの竹中夫妻だったこともずっと後に知りました。
乞食のような妙な男が気になった若い女性、その男は全く売れない実直な芸術家。勝手に転がり込んできた女は作品の裸体になる覚悟も、ダンプカーの運転で男の生活を支える覚悟もあり。幾度もドラマの題材になった二人。
そんな話、ご本人達からは一切聞いておらず。
普通の老人なら、自慢の一つくらいするだろうに。
だから、ますます忘れられず。(五十年近く前のドラマも丁寧な作り)
三年前の引越し後、所有していたCDを久し振りに整理しました。とりあえず、アーティスト別に並び替えて。引越し前までは部屋の至る所に散乱していたCD達だったので、大きな進歩です。
整理中、同じアルバムが幾つも見付かったり。冨田勲の「月の光」も二枚同じのがありました。多分、過去に三枚購入していたのだと思います。そのうちの一枚は竹中さんへ。
いつ購入したのだか思い出せない一枚と、冨田勲さんが亡くなられた頃に「そういえばあのアルバムは手元に残っていなかった」と勘違いして購入した一枚。そんな手元の二枚らしく。
久し振りに自宅のステレオで聴いてみたところ、やはり素晴らしいアルバムでした。
幻想的に響きつつ、何処かに刻まれる残音。
コメント
SUKIYAKI氏がこんなに行動的だったなんて、全然知らなかったよ。
それはそうと、平田先生ってどんな人だったか、まったく思い出せない。。。
俺の記憶力はもうダメだ。
ルノワールさん
千歳は高校時代に文化不毛の地とか言われていて、頑張ってる方が案外多かったのになぁと。隣の恵庭も含めて。
音楽の世界は作者が生きているうちに評価が分かりやすいものの、美術の世界は残酷だよなぁと。亡くなってからの評価が多すぎで。
竹中さんの個展等々、早死にしたK君も誘うべきだったと今更思ったりです。
平田先生、自分は大好きだったよ。