高校時代からご先祖さんを時々調べていました。
子供の頃に時々会う機会のあった奈良の爺ちゃん曰く「昔は大金持ちで、釧路の駅前の土地をいっぱいもっていたんだぞ」で。
嬉しそうに語る爺ちゃんはホラ吹きに見えず、そのうち調べてみようと思っていました。
爺ちゃんの苗字は代々受け継がれる珍名。
母が離婚してから八年ほど自分もその苗字でした。
母の再婚で北海道に引越した自分は苗字も代わり、千歳市内の図書館へ伺う機会があるとカビ臭い歴史書を時々漁っていました。当時はインターネットなど無かったですし、暇潰しに図書館に伺う機会が多く。
そんな中、釧路市史に気になる記載を発見。大正時代だったかに釧路に初めて電話が導入されたそうですが、その一覧にご先祖の苗字が。
それなりの資産が無ければ、当時は電話など持てなかったと思われ、爺ちゃんの話は現実味を帯びてきました。
釧路と帯広の間に白糠という土地があるのですが、そこにはご先祖の石碑もあると聴いていました。
高校一年の夏、同い年のイトコが暮らす帯広に伺える機会があり、青春十八切符を入手した自分は小樽観光を楽しんだ後に帯広へ。
帯広へ伺う前に何故に小樽へ寄ったかというと、自分も理由を覚えていません。しかし、当時暮らしていた千歳から帯広へ直行では数時間で到着してしまうし、一日中乗れる切符を有効利用したかったのかなと思います。
当時の小樽は観光名所としての再開発はそれ程進んでいなかった記憶です。デコレーションされていない古い町並みで駄菓子問屋を偶然見つけ「点取り占い」を大人買いしたりでした。
小樽からは札幌経由で帯広へ。車窓から伺える夕日に染まったオレンジ色の十勝川は何とも美しく。ヨーロッパの絵画とも違うし、ドラマ「北の国から」でもこんな場面は無かったハズで。
乗客もまばらな各駅停車には同世代の女子高生集団も乗っていたのですが、際どい話題で盛り上がっており、そんな場面も北海道らしかったです。(またしても妙な場面を覚えているのですが、生理用品の話題なんて近くに男子が居たら本州では出さないと思うし、こちらも耳がダンボになってしまい。引率者らしき若い男性の先生は特に気にしていない様子でした)
そんなことどーでもいー。今回はご先祖さんの話なのです。
帯広のイトコの家はやたらと立派でした。冬の間にボットン便所の排泄物が凍り付いて塔になる自衛隊の官舎とは偉い違いでした。
何泊したのか記憶に無いのですが、青春十八切符はまだ何枚も残っているので、イトコと白糠へ伺うことに。歴史探検。
白糠へ到着すると、思ったより新しい建物が駅の周辺にありました。もっと寂れているイメージだったので。
大戦までは、軍に収める馬の生産で相当潤っていたと何かで読んでいて。
石碑が本当にあるのか信じてはいたもののどの辺にあるのかは定かでなく、旅の直前に電話で爺ちゃんに聴いていました。
爺ちゃん曰く「白糠からゴリ離れたチャロだよ」と。「ゴリ」とは何ぞや?で聞き返すと昔の距離の単位が「五里」だそう。
白糠に到着してからの行動予定は全く無く、とりあえず役場へ行ってみることに。
「〇〇の末裔なのですけれど、ご先祖の石碑があるとのことで調べに来たのですが、何方か分かる方はいらっしゃいますか?」。
数分待たされて、老人がやってきました。
「町史を丁度編集していたところで、〇〇さんのことも調べていたんだよ」と。
何とタイミング良かったのか。そして、立派なセダンで石碑まで案内して頂けることに。
役場の職員の方の運転で観光名所も案内して頂いたりで、想定外のサプライズとなりました。
そして辿り着いた石碑。
過去に開拓されたであろう平野の少し小高い場所に石碑は残っていました。国道と並行に走る線路沿いで、裏には小さな小学校が。(当時はまだ廃線になっていなかった記憶の白糠線)
「開拓功労者」の石碑には〇〇六太郎の名が刻まれていました。(Googleのストリートビューではまだ残っている様子です。白糠線の廃止に伴い、更に移設されたのか?ちと当時の風景と異なる感でもあり)
これはなかなかの感動でした。
同行してくださった老人の話では、「大正時代に酷い冷害があって多くの村民が困り果て、誰も助けてくれる人が居なく頼りになりそうな人には見捨てられ。そこで〇〇さんに相談したところ拾ってもらえたらしいんだよ。この石碑は一度捨てられそうになったんだけど、当時を知る老人達が反対してここに移設されたんだ」。
この石碑には何十年にも渡るドラマがあったようです。そして、ご先祖もお人好しだったようで。
編集中の町史のコピーも頂いたのですが、同様な話が綴られていました。「捨てる神、拾う神」と。
老人からは「〇〇さんのそれまでの歴史を知りたいから、何か分かることがあれば教えてほしい」と。
ただ、自分が知っているのは釧路で大きな呉服屋を営んでいた程度で、何処から来たのかまでは当時分からぬままでした。
その後、身内から聴いていた話では大戦前までその呉服屋は繁盛していて、道内に幾つも支店を構えていたそうで。当時の釧路は相当繁栄していたとも。
しかし、番頭さんの裏切りで全てを失ったと。
自分の爺ちゃんはその辺の話を詳しく伝えてくれませんでした。まぁ、大人な人格であれば孫に語る話題では無さそうです。
しかし、自分もお世話になっていた身内が亡くなった際にその番頭の倅だかが葬儀に訪れ、お酒の入っていた爺ちゃんは激怒してしまったそうで。
自分はいつも優しかった温和な爺ちゃんのことしか知りませんし、懐いてくれる孫も可愛かったのかと思います。
爺ちゃんは店を失うまで幼少期からボンボンだったそうです。しかし、その後はかなり頑張ったらしく、大手生保の子会社で社長まで上り詰めていて。
自分が二十代の中頃に爺ちゃんの葬儀に伺った際は、生保のお偉いさんが何人も参列されていました。
インターネットが普及し始めて数年経った頃、何となく検索したところ、新潟に同姓の方が見つかりました。病院で真面目な仕事をされている方の様子。(現在ではもっと沢山の同姓の方が見つかります)
試しにそのHomepageの管理者さんに電子メールを送ってみたところ、しばらくして新潟の〇〇さんから封書が届きました。
自分からの電子メールにはご先祖の石碑の画像等も添付していたので、少しは信頼して頂けた様子でした。
頂いた文章では、元々は江戸で商いをしていたそうです。家系図にも白糠の石碑の人物は残っていたそうですが、面識も無い方には詳しく語れないとの内容でした。
上記から十年以上経った昨年、Webで改めて検索してみたところ、更に詳しい情報が見つかりました。
国会図書館のDBに残る北海道の開拓関連の古い書物でした。他にも大正期の何方か(永久保秀二郎氏)の日誌をデジタル化した記録にもご先祖さんの名が所々残っていて。
江戸時代のご先祖さんは江戸や新潟で商いをし、人望も厚かったらしく地域の長も務めていたそうです。しかし、大火で全てを失ったらしく、明治期に北海道に渡り。
その後、釧路で大成功を収めたと。
当時の人物写真もDBの記録には残っていました。大正期で既にかなりの老人でした。
江戸時代から大正時代までのご先祖さんの記録が残っているのは、なかなか貴重というか、珍しいというか。
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