[ 雪景色 ]
実家から離縁届けみたいな文書が先程届きました。
唐突なので、他人のことに思えるくらいですが、自分宛でした。
兄に電話するか一瞬考えましたが、また振り回されるのも馬鹿馬鹿しいので、近くの酒屋さんで発泡酒を購入。
飲みながら、二十年前の回想でも
あのときも、自分は考えていました。
現役で入れる大学、自分でも学費と生活費を払える大学で、某大学の二部に自分は入学した直後でした。
地元北海道を離れ、東京へ辿り着いたばかり。
そんなに優秀な学校ではありませんでしたけれど、自分の世代はベビーブームだったので、何処の大学に入るにも、それなりの努力が必要でした。
兄二人もそうであったように、自分も大学は一校しか受験させてもらえなかったので、安全パイでゆきました。
それで入った学校でした。
養父の斡旋で、養父の兄の仕事を紹介されていました。
学費を稼げる仕事を紹介されたのですが、仕事内容はなかなか教えてもらえませんでした。
「そんなの、(大学に)受かってからの話だ」で、受かるまで聞けませんで。
どうにか受かってからも、なかなか教えてもらえず、上京直前になって、
「革靴の履けない仕事だ」と聞かされました。
察しはつきませんでしたが、ともかく、それを頼りにするしかありませんでした。
上京した自分は、当初、兄の部屋を借りていました。
その頃、兄は春休みを利用して、地方の合宿免許に出掛けていたので、干渉することもなく。
養父から紹介されていた職場へとりあえず挨拶に伺ってみると、現場の土方のような仕事内容でした。
ともかく、仕事に就いてみる事にしました。
まだ自分は18歳でしたし、何事も経験ということで、始発の地下鉄で職場に向かい、トラックで熊谷の現場へ。
自分は若過ぎたせいもあり、周りの皆さんはとても親切にしてくれました。何処の馬の骨だか分からない自分になんて勿体無いくらい親切で。
色々な話も聞かせてもらえました。
ただ、一つだけ引っ掛かる部分がありました。
「年に幾度か、地方の現場に皆で移動するから、大学には通えなくなる」
との話でした。
自分には話が違い過ぎました。
自分は、お金を稼ぎに上京したワケではありません。
最短で大学を卒業するために、上京したのです。
現場監督は自分より少し年上の子供さんを大学に通わせていました。
その辺の事情を説明し、頭を下げながら、自分はその職場を去りました。
社長である養父の兄は、初日しか会えませんでした。
その後、「親の顔に泥を塗った」とのことで、養父から自分は離縁されそうな状況だったそうです。
そんなことは知らず、自分は路頭に迷う状況でした。
でも、まだ春休み期間でした。
大学の講義が始まるまで、まだ少し時間がありました。
大学のキャンパスに掲げられていた求人票を観に行きました。
月給は安かったものの、賞与がしっかりしていて、定時で帰らせてもらえる求人票に目が留まりました。
ピカッと光ったのは、大学職員の仕事でした。
「紹介を受けたい方は、工藤先生へ」との後書きで。
工藤先生の研究室に向かいました。
呑気な雰囲気の工藤先生は、毎度世間話ばかりで、なかなかその先に話が進まぬ中、こちらの状況も徐々に自分は伝えておりました。
「また明日、いらっしゃい」と、毎度のお別れで。
そんな日々が続いた一週間後、工藤先生の一言は
「分かった。紹介状書くから、安心しなさい」
紹介された大学の面接は、課長クラスの方々が五人以上並ぶ場面でした。
しかし、暖かい質問ばかりで、自分は助けられた状況でした。
最後の質問は、いまでも覚えています。質問した側も、忘れられなかったそうです。
恥ずかしい質問でしたが、自分は素直に答えています。
「何故、うちの大学を受験しなかったの?」
「兄二人も、一校しか受験できませんでしたし、冒険は出来ませんでした」
卒業までの五年間、助けられてばかりの職場となりました。
あの職場のあった駿河台周辺には、思い出が沢山詰まっています。
なので、いま、自分はその近くに住んでいるのかも知れません。
養父は在学中の自分を扶養家族に入れていました。
毎年、在学証明を送るように言ってきておりました。
素直に自分は送っていたのですが、ひょんなキッカケで、それが良くないことだと知りました。
税金等の優遇措置だそうですが、何かあった場合、自分も責任が問われます。自分は扶養家族に該当しない年収でした。
自分は在学証明の送付を拒否しました。
ほどなく、脅しの文書みたいなものが養父から届きました。
身内からも「縁切られたら、(卒業時の)就職も難しいぞ」との言葉で。
卒業に必要な単位を取得した頃、学校帰りの夜の山手線のホームで、気になる場面に遭遇しました。
小さい子供を何人か連れた若い母親が、駅のホームに突然しゃがみこんで。
子供が「どうしたの?」と母親を囲んでいました。
幼かった頃の自分、母上のそれに近い場面をみていまして。
何か助けられることは無いか?と現実に戻った矢先、自分の乗った山手線は次の駅へ向かってしまいました。
在学証明は、翌日送りました。
それまであったことも、水に流すことにしました。
ここ数年の話になります。
養父の浮気癖等は、噂に聞いておりました。
しかし、一昨年のそれは、人の道に反しました。
全てを失う覚悟がないと、出来ないことだと思います。
なので、時間に解決させる方法を自分は選んでいました。
何年掛かろうとも。
その一昨年のこと、遂には母上にも離婚を迫った養父ですが、結局は母上に泣き寝入りしています。
あれは、「泣き寝入り」以外の表現が出来ません。
自分は自分の彼女を実家に連れてゆきませんでした。これまで一度も。
自分が選んだ大切な彼女を危険に近づけるなんて、馬鹿以外の何者でもなく。
本日の養父からの離縁の文書は、その後、自分が養父と距離を置いていたためだったようです。
具体的には、養父の実母が亡くなられた場面で、自分は一切連絡を取らなかったから。それが気に入らなかったそうです。(その件は対応不要と養父は言っていたのに)
自分は「旧姓に戻れば?」と、身内からも言われていますし、自分でも、それに迷える場面は実際あります。
ただ、もう少し時間に流されてみます。
一時の感情に流されるのは、避けたいですから。
ガァ
コメント
ご苦労されたのですね わたしも自力派でしたが
精神的にはSUKIYAKIさんほどじゃないかな…
親も経済力がなかっただけで悪意はないし。。
そんなときは酒ですね?お互い。
billyさんへ
「今回ばかりは」と思えることが幾度かありましたけど、何故かそれまでは堪えられていました。
こんなの綴らない方針でしたが、綴ってしまった時点で、自分なりに決心ついていたのかなぁ。
自分でもまだよく分からんです。
経済力は仕方ないとして、併せて信頼もないのでは、話になりませんよね。
まぁ、無事に大学は卒業できたので、苦労だなんてその後は思っておりませんヨ。
そこで知り合えた方々の優しさに支えられていましたし。
そんなことよりも、今年の神田祭の半纏、このままの苗字入りでゆけるのか、何とかせねばです。
兄の子供達の分を合わせると、旧姓入りで七枚くらいは作れそうなんですよね。
足りない思考回路はそっちに使った方が面白そうです。
ガァ
[…] 自分が東京へ上京した後の養父は益々傲慢で、大学時代は二度も縁を切られそうになり。 […]
[…] ここら辺の話は兄が壊れてしまった当時も既に綴っているのですが。 大学の入学当初は路頭に迷いかけた自分だったものの、入学した大学の紹介で他の大学の職員に就けていました。 月給は安かったものの賞与はしっかりしていたので、学費も何とか捻出出来て。 卒業の年にはそれほどみすぼらしくない生活も手に入れていました。 更に第一希望だった一社から内定も頂けて。 […]