二番目の兄の命日でした。あれから14年経つとは。
死因もそうなのですが、晩年の兄はアルコールの取り過ぎで、人格まで崩壊していまして。
たまにしか連絡を取らない自分は距離感を稼げたものの、一緒に暮らしていた四人の子供達や家族が可哀想で仕方なく。
晩年の兄はそんな日々が長かったので、どうにも悪いイメージが残ったものでした。
自分の親兄弟は当時最悪の状況でもありました。
発端は母の離婚辺りからで。更にその発端は養父の浮気癖やDVだったりで。
当時は母も病気で体調を崩していたのですが、その際に処方された薬がまた良くなかったのか、無責任な発言が少なく無く。
特に兄達のお嫁さんへの干渉が酷く、結果的に母は兄達から縁を切られてしまうことに。
家族が空中分解した様な状況でした。
自分はあの家族が信用し切れず、大学で上京してからは距離を置きがちでした。
だから結果的に助かった部分もありました。
兄達はそれまでずっと親と上手くやっていたのですが、何かを過信してしまっていたのかもで。
家族の中ではずっとお調子者な自分でもあったものの、案外冷めた男だったのかも知れません。
ただ、時が経つと兄の良かった面も思い出せたりです。
上京した年、食費を切り詰めた自分はガリガリに痩せていました。猛暑の夏にエアコンもないボロアパート生活も体重を落とさせていて。
その冬に酷い風邪をひき、寝込んでいたところ、兄は薬や食糧や栄養ドリンクを届けてきてくれて。
これは意外な行動でしたし、嬉し涙でした。
イザという時は見捨てられてしまったことも幾度かあった兄でしたし、自分は頼らない様にしていたので。
あの頃は東京で誰とも信頼関係を築くまでに至っておらずで、孤独感だけでした。
寝込んでいた夜は冷蔵庫の小さな音だけやたらと響いていた記憶です。
ただ、やっと離れられた実家への反骨心だけは強かったです。あれがバネでもありました。
兄からは昔から馬鹿にされるだけの自分だったものの、もう一つ意外な出来事が。
大学を無事に卒業した自分、その年に兄は素敵な女性と結婚し、新居に招かれたことが。
お酒の場面では兄の大学時代の親友も一緒で。
兄は自分の事を「こいつはなかなかやる努力家だ」と紹介してくれて。
これもまた意外でした。兄に立てられるのは初めての経験でして。
カタチだけは一部上場の大会社に入れた自分でしたが、当時はまだ現場研修中の立場で、これまた楽ではない日々でした。
大学を出たら、周りと同じスタートラインに必ず立てると目標を立てていたものの、何故にこうなってしまったのかと悔やむ日々で。
だいたい、その現場研修は無期限で出口も観えず。あまりの忙しさに同僚は毎月のように退職していく支社でもあり。
ただ、ここで辞めてしまってはこれまでの努力が全て水の泡でしたし、現場の経験だけで終わってしまうのは癪でしたし。
身体がボロボロになりかけた頃に、希望だった研究開発セクションに異動出来ました。
理系の大卒同期だけで百人も居たのですが、そのライバルたちが皆希望していた中でそこへ行けたのは十人程度でした。
勿論、その中に入れるように努力はしましたが、運も何か味方したのだと思います。
その後も同期の中では恵まれた進路に進められたものの、無茶な仕事ぶりが祟って、胃と十二指腸に穴を開けてしまい。
しばらく様子をみたのですが、環境を変えない限り慢性になるのが目に見えていて。
それで退職しました。
退職時には事前に兄にも話を伝えていたのですが、猛反対を受けてしまい。
兄は証券会社等の金融系で働いていたのですが、入社からしばらくした時点でバブルが崩壊してしまい、その後は地獄の日々だった様です。
自分の働いていた会社は、株価ばかりは優秀だったので、中身を知らない兄からすれば優良企業だったのだと思います。
ただ、実態としては離職率も激しい理不尽な体制で、せっかく本社でそれなりのポジションに就けても、つまらない理由で地方に突然転勤させられたり、現場へ飛ばされたりで。
三日前に突然地方へ転勤の辞令は、家族持ちに無残な話でしたし、長期ローンの家を購入した直後に地方転勤とか、嫌がらせ以外の何物でも無く。
それでも会社にしがみついていた同期はメンタルを病んでしまったりで。
まぁそんな話は今更どうでもよく。
自分の退職時に兄が言ったのは「俺が入りたいくらいの会社なのに勿体無い」とか「そんなに俺が頼りにならないか」でした。
後者の言葉の意味が全く理解出来ない当時でした。なので、まだ記憶に残っていて。
自分からすると学生時代から優秀過ぎる兄でした。ドライな面も知っていて。
まぁ自分は出来の悪い末っ子だったので、兄弟の中では仕方ないと諦めてもいて。
ただ、大学受験の場面では兄からも脅されてしまい。「俺達二人は(大学を)一校しか受けていないのに、お前みたいな馬鹿は何校も受ける立場に無い」と。親からの告げ口もあったと思います。
説得力のある言葉でした。二人とも立派な大学に進学していたのですから。
しかし、自分は馬鹿だから何校も受けたかった訳で。
兄からの脅しは共通一次試験を受ける直前でした。科目数の多い試験は勝ち目も乏しく、私立の夜間のみに絞ることに。
結果的に、三教科に絞って上手く行ったのかも知れません。ナイスなアドバイスでした。
受験勉強中の寝室で布団に包まりながら問題集を解いていたところ、隣りの居間からもう一人の兄の声が聴こえてきたことも。
「あんな馬鹿は何処の大学にも受からないよ」と。母と二人で大笑いしていて。
これは頭にきたので、抗議に向かうと「あんた聴き耳立ててたの!」と母は怒り出す始末。
そんな家族だったので、自分の内心は「いまにみてろ」でした。
勿論仕返しとかのつもりは無く、自力で何処までも行ってやる決意で。
大学の合格通知は母が勝手に開封してしまい、これも大喧嘩になったりで。
夜間の大学に進むのであれば、いい仕事を紹介してくれるとの養父の弁だったものの、いざその仕事に就いてみると、夜の大学に通うことも困難な現場の肉体労働だったりで。
上京直後もそんなこんなで、自分で仕事を新たに見つけるしか無く。親の紹介した仕事を勝手に辞めたとで勘当される寸前の自分でもありました。
家族からしたら、自分はほとんど敵扱いに近く。
だいたい自分が家族にそこまで酷いことをした覚えは無いのに。
ここら辺の話は兄が壊れてしまった当時も既に綴っているのですが。
大学の入学当初は路頭に迷いかけた自分だったものの、入学した大学の紹介で他の大学の職員に就けていました。
月給は安かったものの賞与はしっかりしていたので、学費も何とか捻出出来て。
卒業の年にはそれほどみすぼらしくない生活も手に入れていました。
更に第一志望だった一社から内定も頂けて。
しかし、ここでまた家族問題が。
毎年実家から要求されていた在学証明がインチキに利用されていたと気付いてしまい。
親は自分を扶養家族扱いにしていたらしく、それで結構な儲けになっていたらしく。
これがバレると自分がお世話になっていた職場にも迷惑が掛かってしまい。
何処の馬の骨だか判らぬ若造に対して、職場の皆さんはあの家族より余程親切で。
在学証明の送付を拒否した自分は、また勘当されそうになりました。
そこでまた兄からの脅しが。
「内定しても、親から勘当されたら保証人など立てられないぞ」と。
養父からも脅迫状の様な封書が届き。これは押入の何処かでまだ眠っているかと。
何処まで腐った家族なのだか。
自分には落ち度が無いと思っていましたし、子供達が巣立った実家は人並み以上の生活にもなっているのに、こんなコソコソした汚い手を相変わらず使うとは。
自分は正々堂々とこのまま生きたい旨を養父に返信したのですが、状況は当然変わらず。
しかし、ふとしたキッカケで結局自分が折れることに。
それまでのことは水に流すことに。
なので、兄に限らず自分は家族を頼らない様にしていました。
頼ってこないと不満を漏らした兄は、それまでのことを忘れてしまっていたのだか。
頼ったところで断らられては更に悲しい流れなのですし。
その後、離婚して生活に困っていた母は兄を頼りにしていました。
兄は同居の受入れ体制を整えていたものの、兄のアルコール依存症が発覚し、母は酷い言動を取ってしまい。
これがキッカケで、兄は母と縁を切ってしまい。(当時の記事も読み返してしまいました)
自分と違って、あんなに上手くやっていた仲だったのに。
兄が亡くなる数ヵ月前、自分にも火の粉が飛びかけていました。
そして、亡くなった後もそれを身内に伝えられなかった期間は正直辛かったです。
親友たちから、どれだけ慰めてもらったことだか。
兄達も、もう少し距離感を保てたのなら、こうはならなかったんだろうなぁと。家族達が争う中、どっちにも着かない自分は双方から「お人好しだ!」と笑われる始末で。
昨年の母の葬儀では、そんな流れもあり一番出来の悪かった三男な自分が喪主を勤めました。出来が悪いどころか、幾度も勘当されかけたのに。
兄達の顔を潰すつもりは無かったですし、その点も避けたかったのですが、仕方ない流れでした。もう一人の兄は入院中でしたし。
責任の重そうな役だったものの、母をずっと支えていた叔母が全てまとめてくれていました。全く申し訳なく。
ただ、葬儀で久し振りに集まった親族の皆さんは心優しく、大笑いも出来たりで。
互いの気遣いがまた暖かく、そんな場面で泣けてしまい。
葬儀が終わり、親族の皆さんを実家から送り出す場面では、どれだけ涙を落としてしまったか。。
家族の前ではこんなこと一度も無かったのに。
あの兄の葬儀は悲壮感そのものでした。
兄の家族と自分だけの葬儀、家族はとても頑張ってくれた立派な式だったものの、この後にどうなってしまうのか皆心配しか無く。
もう少し気の利いた何かが自分に出来なかったかと、後悔もあります。
晩年の母は福祉のヘルパーさんや姉思いの叔母にずっと守られていましたし、あんなに温かい雰囲気の葬儀で終えられて。
終わりよければ全てよしで、それまで色々あった母は幸せだったと思います。
あっちの世界では、二人ともまた上手くやっているとは思うのですが。
自分のことなど、また好き勝手言っているに違いないでしょうけれど。
コメント
チャックベリーの命日と
同じだね♪
さっき YouTube見てたから
びっくりしちゃった!
おぉ、またシブい選択を。
自分もしばらく前にエルビスの曲をまとめて聴いたり、色々と検索してて。
ロックの始まりの頃って、そんなに派手な演奏でも無いのにゾクゾク感がたまらなくて。
結局また兄の悪口みたいなこと綴っちゃったんだけど、努力家で尊敬していた部分は勿論あって。ドライだったけど、情も少しはあったんだよなぁとか。
兄が母と喧嘩している場面はあぁなるまで一度も見たこと無かったし、今で云う忖度みたいのは卓越していたと思う。
自分はそれが全く下手で、逆にそれで助かった部分もあったかと。
忖度に失敗した結果があぁだったのかなぁと。
まだ健康的に生きていたら、少しは相談してみたいこともあったのに。
母の扶養問題で揉めていた当時、pどんから貰えたアドバイスも有難かったよ。