一昨日の夜にたまたま観た映画がソコソコ面白かったです。
「セッション」というタイトルの作品、Jazz系の音楽学校でのストーリーなのですが、ここに登場する講師がともかくスパルタン。
自分は学生時代からJazzを聴いていたし、楽器にも触れてきたので、場面々々のバックボーンとか少しは理解も出来ました。
まぁ、Jazzに詳しく無い人でもソコソコ楽しめる内容だったとは思います。
しかし、アカデミックな世界でも現代のアメリカではここまで「Fuck」という単語を連発するものなのでしょうか。
怒りを表現する言葉の多くにFuckが登場し、まるでFuckの活用形で言語が成立しているようでもあり。バリエーションが多過ぎで、字幕の日本語訳も大変だったと思います。
自分の高校時代の音楽教師もかなりスパルタンだったなぁと思い出しました。
普通科の高校の一科目でしか無かった音楽ですが、高校入学時に生徒が選択できる芸術系科目の中で音楽は何故か人気があり。他には書道や美術も選べられました。
どの科目も偏りが無いように定員は決まっていて、お試し授業の段階で音楽のN先生は「俺の授業は厳しいぞ」と念押しをしていて。
そんなこと言わなくても、噂だけで充分伝わっていました。
自分は過去にクラシックピアノを習っていたので、少しは楽できるかな?何て思っていたものの、自分にとっても厳しい授業が多かった記憶です。
鉛筆で机を叩き、三連符混じりの曲のリズムを刻まされたり、曲を書かされたり、コード理論の基礎を叩き込まれたり、譜面のフラットやシャープの数で曲の調を当てさせたり。
「フラットはファ、シャープはシ」の法則とか、今でも役に立ってはいますが、クラシックの音大でもそこまで教わらないのではないか?と未だ思っていたりです。
実際、音大のピアノ科を卒業した知人とか、ポピュラーのコード譜が全く読めないとかはザラでしたから。
あまりにも実践的な講義、その後に恩恵を感じた生徒はどれだけ居たことやら。
自分は高校時代の短期間だけ、その先生が担当するブラスバンドにも属していました。
この部活は更に内容が厳しく、土日も練習と聴いていたので入部するつもりは無かったのですが、成り行きで一時期参加していて。(綴ると更に話が長くなってしまうので、経緯はそのうち)
まぁ、凄いレッスンでした。先生はチューニングのズレが大嫌いで、測定器のような古いチューナーをよく持ち出していて。(大抵は耳だけでカバー出来ていました)
リズムにも厳しく、打楽器を担当する生徒は毎度ボロカスに叩かれていて。一期上の女性が打楽器の担当でしたが、涙を流している姿は幾度もありました。
ブラスバンドに所属する生徒達の雰囲気も毎度どんよりしてるし、拘束時間も長いし、多感期の重要な時期に「こんなことやってられるか!」で自分は退部しています。
当時の自分は大学進学など考えていなかったですし、最後になるかも知れない学生期間にこんな思い出しか残らないのは非常に馬鹿げていると思えていて。
もっと沢山の経験をしたかったんです。
ただ、学校祭ではピンチヒッターでラッパを吹くような場面もあったりでした。
音楽の授業は高校二年まで続きました。その二学年の春頃に「今年の暮れは市民でベートーベンの第九を歌う機会がある。滅多に無い機会だから興味ある生徒は私のところまで」との先生からのアナウンス。
自分は歌が下手だし、授業でも先生からボロカスに言われていましたが、第九は好きだし本物のオーケストラをバックに(実際はオケが手前ですが)歌える機会など滅多に無いのは気付いていました。
週に一度水曜の夜だけの練習であれば付き合っても良いかな?で同期二人を誘って。
これは良い経験になりました。練習場所であった文化センターに集まるのはほとんどが大人達でしたし、そんなスパルタンな内容でも無く笑いも絶えず。
当時の自分といえば、煙草もお酒もやっていて練習会場には単車で乗り付けて。そんなのが第九をというのは妙だったとも思われます。しかし、どれも経験しておきたかっただけでした。
ズルい確信犯でもあったのですが、あの高校の学生服を着ていれば大体許された様子でしたし。
これを綴っている今もたまたま年末ですが、第九の本番は実に見事にキマり、いまでも大晦日の夜はテレビ放映の第九を一緒になって歌いがちです。
高校三年になると音楽の授業はもう無く、学校祭のクラス発表くらいでしか楽器に触れる場面は無く。
あの先生にはずっと怒られてばかりだったものの、音楽の成績はそれほど悪くなかった記憶です。ペーパー試験の対策をもう少しちゃんとやっていたら、もっと良い成績だったのかも知れませんが、丸暗記系はどうにも苦手で。
夏の学校祭の後は大学受験の勉強にけっこう必死でした。年末まではどうにも空回り気味だったものの、年明けからはラストスパートに火がついて。
希望の大学の合格通知を何とか掴み、久し振りの高校で職員室に報告へ。そこに向かう廊下には大学合格者達の名前が既に貼られていて、自分の名前も。
自分は夜学部の合格でしたが、何故か大学名と学部くらいしか綴られていなくて。(後からそれを指摘したのですが、何か気を遣ってくれたそうです。ただ、地元の新聞の合格者一覧を観たところ夜学部であっても知られた進学校の生徒だけでした)
職員室のドアを開けると、誰よりも先に音楽のN先生がニコニコ笑顔でやってきました。両手を掴み「良くやった良くやった」と。
自分も嬉しかったですが、かなり意外でもありました。生徒のことなんて全く無関心かと思っていたN先生でしたし、こんな笑顔は観たことが無くて。
国立大学の合格発表は少し後でした。第九に一緒に参加したH君は生徒会長もやっていて忙しい立場でもあったのですが、無事に現役で北大に合格していました。
H君はN先生とその後会えたのか分かりませんが、きっともっと喜んでいたんだろうなぁと。
そういえば、自分は一度だけ嘘をついていたなぁと。
ブラスバンドを辞める際「こんなに拘束がきついと、受験勉強もやってられない」と。実際はそれからアルバイト三昧だったのですが。
途中はどうであれ最後にツジツマは合ったから、まぁいいか。
N先生については授業のある昼間からお酒臭かったり、大人としては問題あったのかも知れません。第九の裏方で頑張られていた市の職員の方も、その辺で苦労が多かったとも聴いていて。
市の文化センターは当時建てられたばかりで、大ホールに置かれたピアノが存在感ありました。高級ピアノの代名詞でもあるスタインウェイ。それも奥行きの長いコンサートピアノです。
当時でも千五百万円はしたらしく相当無茶な買い物だったそうです。誰がそれを押したかというと、そのN先生だったそうで。
自分は第九の練習日は早めに会場に入り、そのスタインウェイを勝手に弾かせてもらっていました。実際、あの鍵盤のタッチは素晴らしかったですし、音の響きも完璧でした。
いま買おうとしたら幾らになるのか分かりません。しかし、千歳市所有の立派な財産になっていそうです。
映画の話からかなり逸れてしまいました。
本気で音楽の演奏をマスターしようとしたら、あれくらいのスパルタンさが必要なのかなぁとも少し思っていたりです。
実際、アマチュアのロックバンドでもスタジオ録音を初めて経験した友人は僅かなミスタッチに相当気を配ったそうで、コテンパンに矯正を強いられたそうで。
プロの演奏家であっても、メンバーの中にジャコ・パストリアスのような天才肌が居ると緊張感も半端なかったとか。伝記等を読むと、僅かなリズムのズレも容赦しなかったそうで。
音楽は、なかなか大変な世界だと思います。
コメント
連投失礼。
「セッション」は作品を観たあとにどうにも違和感を覚えてしまったが、町山智浩・菊地成孔両氏による作品評のバトルをネットで読んで、いろいろ腑に落ちた記憶がある。
ただビビリの俺としては、怒りやスパルタで支配された指導が、教えられる側の成長をより促すとはあまり思えないんだけど。
そういう面では当時のN先生もそんな感じに見えていた。対話のチャンスがもっとあれば、俺の音楽知識の深耕にも役立っただろうに。
ルノワールさん
連続投稿全く問題無しです。
自分の場合は運よくハッピーエンドな思い出になったんだけど、不愉快な思い出しか残っていない生徒も多かったんだろうなぁとも思っていて。
勿論、楽しい過程でハッピーエンドが理想だけど、クラシックやジャズの一部はかなりシビアな部分があるかと。Milesバンドのライブ映像を観ていると、新人虐めにしか観えないパフォーマンスとかもあって。
バンドで足を引っ張る演奏をする人に「どうしてお前がここに居るんだ?」と思ってしまったことは自分もあったし。(社内バンドの時は仕事で険悪な関係になりたくないから誰も指摘できなかったり)
映画「シャイン」は途中からしか観たことないけど、あのレッスンでは本番演奏後に主人公が壊れてしまったり。ジャンルによっては仕方ないのかなとも。
N先生については授業中に「セロニアス・モンクのような天才」とかさり気なくJazzの話題も出していて、そんな名前を知っている生徒はこの教室で自分以外居るのかな?とニンマリだったり。
不意打ちの質問に頓珍漢な回答をするとボロカスに叩かれることも多かったけど、その毒舌ぶりが可笑しくてH君と休み時間に大笑いしたり。
「時代錯誤も甚だしい!」ってフレーズが特に可笑しくて。同じ質問を自分が最初に受けたら、自分も地雷踏んでいたんだろうなぁと。怖いこわい。
でも、もう一度受けてみたい授業の一つでもあるんだよネ。