本日は43回目の誕生日。
子供の頃の思い出が薄くなりつつありまして、何処かのタイミングで残った断片を繋げておこうと思っていました。
キリの良い本日、残しておこうかと。(今回はちょっと長いです)
一昨年、42歳で他界した兄の年齢をついに自分は越してしまいました。
34歳の若さで他界した和博おじさんの歳を越してしまったときも、ぼんやり考えてしまったんです。
自分、この歳で同じことが出来ていないよなって。
幼少期の自分は母子家庭で育っていました。
三人兄弟三男坊の自分は、二人の兄から良い玩具だったようで、人生ゲームやモノポリーといったスゴロクの類ではいつも負けてばかり。
高校時代、兄にその件を話したことがありました。
兄曰く「勝てなくて当たり前だよ。だって、俺たち二人で勝手にルール変えてたんだから」
なるほど。勝てるワケ無かったのです。
しかし、公平なレフリーでもあった和博おじさんが居たときだけは、自分もゲームをソコソコ楽しめた記憶です。
和博おじさんは母の弟で、自分の幼少期はまだ大学生でした。
テキ屋のアルバイトで入手した軽自動車で、年に数回大和(神奈川)から川越(埼玉)の我が家まで遊びに来てくれていたんです。
ドライブに連れて行ってくれたり、公園に連れて行ってくれたり。
自分の一番古い記憶は、上福岡駅近くの公園で和博おじさんに遊んでもらったジャングルジムから始まっています。
ジャングルジムの上から「ほら、ケースケ、こっちへ来い!」と手を伸ばしている姿です。
怖くて泣きじゃくっていた自分は、その手にしがみつきました。
「幼稚園から帰ってくるまで、家で待ってて」と約束したのに、もう居なかったとき、母を散々責めて、近くの国道まで泣きながら走ったことも。
その後も、江ノ島や油壺の海水浴場へ幾度も連れて行ってもらっています。
和博おじさんは自分が小学二年生のときに、あきこおばさんというとても奇麗な女性と結婚しています。
その年の夏休みは、あきこおばさんの実家である長井(山形)まで連れて行ってもらえて。
長井の実家は、広い田んぼに囲まれ、夜は宙を舞う蛍が幻想的でした。
少し離れた場所にあった川を和博おじさんが「水陸両用車!」とか言って渡ろうとしたとき、浅瀬の途中で車が動かなくなり、大人達が丸太を持ち寄って救出した場面とか、イベントに満ちあふれていました。
しかし、帰りの関越道で自分は怒られてしまっています。
往路の車の中で「山形のお爺ちゃんのこと、ハゲとか言うなよ」と教えられていたことを、最後の晩ご飯の席で皆にバラしてしまい、「お前らなんて、もう何処にも連れて行ってやんない」と。
男の約束を破って怒られた自分は、後部シートの両隣の兄から「バカバカ」と責められる始末。助け舟を出してくれたのは、あきこおばさんだけでした。
その関越道で、今度は最高速をチャレンジした古い車は、ボンネットから煙を上げ、立ち往生。
とても素敵な夏休みでした。
勿論、その後も色々なところへ、自分達は連れて行ってもらっています。
自分が中学三年に上がる頃、和博おじさんの二度目のガンが発覚しました。
一度目は早期発見で助かったのですが、二度目はもう手遅れだったようです。
自分の家族は母の再婚予定者の方が北海道へ転勤となるタイミングでした。
籍を入れて、一緒に北海道へ引っ越しが決まった頃だったか。
北海道での自分は「夏休みに大和の病院へお見舞いにいきたい」と現地で看病していた母に懇願していました。
しかし、和博おじさん曰く「希望の高校に受かってからだ」との伝言。
人生で一番勉強した数ヶ月となりました。
その頃の我が家は、長男が大学受験に失敗し、一浪の身分。次男は高校の転入試験に失敗し、地元で一番ランクの低い高校へ(それまで川越高校という、かなり優秀な高校に通っていたのに)。
家の中の雰囲気は、そんなこんなでドンヨリしていました。
当時、地元でランクが一番高かった高校の合格通知を握りしめた自分は、春の近い夜行列車で大和へ走りました。
病室の和博おじさんは、若かった頃のように痩せて、いい男に戻ったようでもありました。一時の中年太りは見る影も無く。(ヤツレという表現にはまだ若すぎて..)
SUKIYAKI:おじさん、合格したよ。
おじさん:でかした!
涙がこみ上げてきてしまい、自分はトイレに逃げ込んでしまいました。
和博おじさんに褒められたのは、生まれて初めてだったから。
調子に乗ってドジ踏んでは、いつも怒られてばかりだったから。
真っ赤な目がどうにも戻らぬ状態で、仕方なしにもう一度病室へ戻りました。
自分たちの幼少期、和博おじさんは大学の寮で麻雀に託した場面が幾度かあったそうです。
子供達三人へのお小遣いを稼ぐためだったそうですが、そんなとき程ボロ負けで、同級生達に状況を説明しては組み立て済みのプラモデルを餞別に頂いたそうです。確かに、当時の自宅にはプラモデルが溢れていました。
川越からの帰りの16号(国道)、八王子の長い上り坂は助走を付けないとギアの壊れた軽自動車では厳しかったそうで、途中の赤信号に引っかからないように覚悟を決めていたとか。
長男の北大合格も報告出来た頃、高校入学を控えていた自分は北海道へ戻ることへ。
おじさん:示しがついた。
4月1日に和博おじさんは他界してしまいました。
強い鎮痛剤で、最期は幻覚をみていたそうです。
亡くなる数日前、和博おじさんは病室の誰も座っていない長椅子を指差し
おじさん:そこの三人の子供達に、ジュースでも出してあげて
看病にきていた母:うちの子達は、いま北海道よ
おじさん:何処の子だったかな?そこの三人まだ小さすぎるよ..
和博おじさんは、どうやら当時の自分たちをそこに想ていたようでした。
煙草もバイクもお酒も、自分は和博おじさんに教わっています。
もう少し長生きしてくれたら、素敵な女性の口説き方も教われたかもしれなく。
ガァ
コメント
何故かモニターがぼやけて見えません・・・なんでだろ・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
若旦那さんへ
古い話を長い駄文に残してしまいました。
もっと色々あったハズなのですが、どんどん忘れてしまっているようです。
どうにも、あの頃の夏は越えられていないんですよ。
全盛期の吉田拓郎よりもカッコイイおじさんでした。
[…] 生前に会うか、葬儀で会うかの二択で生前を選びました。和博おじさんのときもそうだったんだよなぁと。 […]