教育虐待

昨夜のニュース番組の特集で教育虐待が紹介されていました。
毒母が娘に医大の進学を強要し、九浪した娘さんはその間酷い扱いをされ続け。
最後に娘は毒母を殺害。
再現ドラマも放送されたのですが、かなり酷い内容でした。
検索したところ、事件の全容は様々なメディアで扱われていました。

殺されてしまった毒母は被害者でもあるのですが、実質的な被害者は娘さんで。
浪人は9年間でしたが、それ以前から酷いスパルタ教育は続いていて。
判決は懲役10年、犯行時の娘さんは既に31歳でした。
他の情報を観ると、裁判官さえも同情してしまう事件だったそうです。娘さんは毒母と同居していた頃よりも、現在の拘留中の生活の方が安心出来るそうで。

色々と考えさせられました。
自分の現役高校生時代は、医学部でも私立の一部には偏差値40台の大学が幾つもあり、合格だけなら自分でも可能だったと思います。
しかし、私立の医学部の学費は恐ろしく高く、入学さえ不可能で。幸い、自分は医者になるつもりも無く。
国公立の医学部は学費の安さもあり、どの大学も東大に近い偏差値でした。

高校のクラスメイトの一人が国公立の医学部に入れたのですが、三浪の末だった記憶です。
本人の意思での進学、高校へ通ってはいたのですが「時間が勿体無い」からと、学校の行事はほとんどサボっていました。
ただ、自分からすると結果的に三浪したのだから、束の間の遊びの時間くらい楽しむべきだったのにと思っています。
そのクラスメイトは女生徒で、見た目は綺麗だったものの性格がキツく。ほとんどの行事は不参加なのに、何故か修学旅行だけは参加していて。
学校祭の衣装作りで、理系クラスの僅かな女生徒達は深夜まで相当苦労していた中、あの女性は見て見ぬフリで。
考えようによってはかなり身勝手な女性でしたし、それだったら大検で受験資格を取った方が効率的なのにと。
高校の卒業式で浪人組は皆気の毒に思えていましたが、あの女性だけは全くそう思えずでした。

卒業後、帰省する度に幾度か当時の担任に挨拶へ伺っていて、その際あの女性の合格を知りました。
しかし、あの女性が医者になったとして自分はあの人の患者にはなりたくない感で。これは担任も同意見で苦笑いでした。
勉強は出来ても人として残念で。お医者さんは仕事柄究極の選択を迫られるでしょうし、あの女性は情など考慮せず理だけで行動してしまいそうで。

自分の場合は親から何も期待されていなかったので、上記の事件の様な辛い思いは一切ありませんでした。その点はとても幸せだったかも知れません。
親からは色々と反対された場面はありましたが、全部自分で決めさせてもらっていたので。
二人の兄は学業優秀でしたが、親からは勉強しろと言われた場面などなく、自発的な勉強でした。
そんな兄達も、受験以外の場面ではガリベン肌でもなく。ただ、自分からすると友人や情を大切にしていない様に観えました。
あの女性ほどでは無いにしても、基本的に理を優先していて。

自分は兄達の足りていない部分を優先していたのかも知れません。思い返すと、時間があれば誰かから誘われたり誘ったりで友人と遊んでばかりでしたから。
友人達と一緒に馬鹿なことばかり年中企んでいて。(勿論、人様に迷惑掛けない範囲で)
特に自分の場合は、糞真面目なクラスメイトを馬鹿色に染めるのが楽しみで。
本来真面目な理系のクラスメイト達、カタチだけの学級委員だった自分は「いまなら許される」とそそのかし、学校祭でも馬鹿騒ぎを一緒に満喫出来ましたし、結果も伴いました。
それでも過半数以上が国公立大に入れたので、後から考えるとみんな頭良かったんだなぁと。
自分はアルバイト漬けで卒業証書さえ貰えれば良い構えだったので、学業に気を抜くとあっという間に下位グループに入りがちで。

兄達の勉強方法で早めに気付いた部分がありました。「学校の勉強と受験に向けた勉強は全く別もの」だと。
なので、受験向けの勉強だけは途中から気合を入れていました。どうでも良い教科の授業中は別の教科の参考書や過去問ばかり解いていて。

高校受験でも大学受験でも、最後の半年間だけは相当勉強したと自分でも思っています。
もうあんなのは懲り々々です。クラスメイトの中にはその期間にメンタルを崩したのも居たりで。
何浪も強いられるなんて、たまったもんじゃなく。
クラスメイトの中にはお金に恵まれていた家庭もあり、都市部の下宿付の予備校で何浪も過ごしたのが居たのですが、ほとんどは途中で集中力が抜けてしまい遊び惚けていていました。
本人達もジレンマな日々だった様子です。
浪人生達は春を迎えると一時的に偏差値が上がるそうで。出来の良いライバル達が進学し居なくなるからだそうで。
現役生活しか知らない自分も、最後の二ヵ月の伸びは驚異的でした。それまで解けなかった問題もスラスラと回答出来て「これはイケるかも!」と。
浪人生達はその時期の現役生が恐ろしかったそうです。

東京で夜間大学に通っていた頃、浪人中だった高校のクラスメイトO君は受験の時期に我が家へ転がり込んだり。有名大学の受験票を幾つも持参し。
仕事と学校から帰宅した自分「手応えはどうだった?」と聴くと「気が向かなかったから行かなかった」と。それも二日続けて。
「落ちたところで気になる女からフラれるより恥かしくないし、せっかくのチャンス勿体無いじゃんかよ」と。
(自分は貧乏だったので大学を一校しか受けさせてもらえなかったのですが、自分なりの妥協点は結果的に妥当だったと思っていて)
次の受験日からは、朝一緒にO君と玄関を出るようにしました。

一週間ほどの滞在「エロ本はソファーの下に隠してあるから、一人の時に使え」と。
最終日は受験の予定も無く「ゆっくりしてっていいから、帰るとき鍵はポストに入れておけ」と。
夜遅くに帰宅したところ、O君の去った部屋はいつも以上に綺麗に片付いていました。
そして、エロ本がソファーの下で一冊増えていました。
いいとこあるじゃん。言葉にならぬこれが友情。

O君のお父さんは大手新聞社の支局長でお金に余裕があり、受験の宿泊先などまともなホテルを予約出来たのだと思いますが、敢えて自分の部屋に泊まらせたかったそうです。
O君のお母さんは市の文化活動で高校時代の自分を知っていて、どうして夜間大学に進んだのかな事情も息子から聴いていたそうです。
そんな後、お父さんから丁寧な文章で封書が狭い部屋に届いていました。
O君のお父さんもお兄さんも東北大学を卒業していたので、色々とプレッシャーはあったのだと思います。ただ、圧力を掛けてくる様な家族では無かったのに。

無条件に何でも好きに選べるというのは、案外迷えてしまうのかも知れずです。少しは条件が伴った方が良いのかもです。
O君は翌年、地元札幌の私立大学に進みました。
自分の世代は下の学年ほど受験人口が多く、浪人を繰り返すほど受験も条件も厳しくなり。
ともかく地に足着いてホッとしました。

最初の話に戻ります。
あの事件の被害者でもあり加害者でもあった娘さんは、やはり気の毒で。
女性として肉体的にも一番魅力的だった時期に苦行を強いられて。
自分はズルかったので「今なら許されるぞ!」と若気の至りで友人達と馬鹿を楽しむばかりで。
そういったハメ外しの機会が一切無いままの青春時代というのは、取り返しが付かずです。

60年代にJazzの究極の演奏を残したJohn Coltraneは「私の人生にレジャーは無かった」との名言も残して40歳で旅立っています。
遅咲きなりしも偉大な作品を世に幾つも残したコルトレーンはまだ幸せだったと思います。

娘さんは若気の至りな青春映画を何作か観ておくべきだったのかもと。
American Graffitiとか、Big Wednesayとか、さみしんぼうとか。
本人よりも、あの毒母が観るべきだったかも知れずです。
何も響かなかったかも知れませんが、貴女の青春はどうだったのか?と。

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