母の葬儀以降、色々と考え込んでしまった数日間でした。
そして答えがちょっと見えてきました。
現在も育児中な同世代の身内や友人の話がキッカケでした。
子供が可愛くて仕方なく、心配で仕方なく、それ以外の困難は何でも受け入れられる。
偶然そうだったのではなく、親として当然の愛情らしく。
どうして子供の為にそこまで犠牲になれるのか。
自分は結婚もしなかったし、子供も居ないので、その感覚が解らなかった様です。ずっと解らないままなのかも知れません。
自分は母に対して酷い対応ばかりしてきたので、母はそれを許してくれるものなのか懺悔な数日でもあったのですが、母はそもそもそんなこと恨んでいないだろうと思えまして。
友人からも指摘されました。たとえ子供が極悪人だったとしても許してくれると。
自分は養父の傲慢な対応が苦手で、高校を卒業したら実家を離れるつもりでした。
自分が東京へ上京した後の養父は益々傲慢で、大学時代は二度も縁を切られそうになり。
養父側についていた母も自分のことを見放していた様子で、養父と同罪くらいに思っていました。
実際は板挟みに近い母だったとも思えますが。
大学の卒業間近に、自分は全て水に流すことにしたのですが、養父についても母についても自分は冷めた目で見続けていて。ずっと。
その後、大手企業に入社した自分はそれなりの収入がありましたし、恥かしくない名刺を出せたので、過去などどうでも良い感覚になれました。過去の問題は貧しさ故でもあったので。
披露宴等の機会で母が東京へ短期間訪れた際は、色々な場所を徒歩で案内したものでした。築地や上野等々。
急だった奈良の葬儀でも、せっかく車で来たのだからと近くの美術館まで日本画を観に行ったり。
あと、最初の会社を八年で辞めて実家へ帰省した際は、母が更年期障害でかなり荒れていまして。自分は胃と十二指腸に穴を開けていて、それを慢性化させたくなかったので一年間何もせず実家でゆっくりと決め込んでいたものの、逆に母の荒れ具合が酷く。
この時も気分転換で色々な場所へドライブに母を連れ出したりでした。
母は何処へ行っても難癖ばかりつけていたものの、その後に再会した際はやたらと嬉しそうにあのドライブを語っていて。素直じゃないよなぁと。
このときの帰省は秋に始まり、春が訪れる頃に単身赴任から解かれた養父が戻ってきたので、自分は実家を出ることに。厳しい冬の除雪役で少しは役に立ったかと。
既に幾度か綴っていますが、その後に母は養父と離婚し、二人の兄から縁を切られています。
離婚は養父の一方的な問題に思っていますが、兄に縁を切られてしまったのは母の干渉が大き過ぎたからと思っています。所謂嫁姑問題で。
母と上手くやってゆくには、ある程度の距離を取らないとトラブルになることが実際に多かったです。
距離感だけは意識していた自分でした。
そうしないと、自分まで母と縁を切りかねなく。
だから、結果的に母には酷い対応が多かったのかも知れません。
二番目の兄は14年前に他界し、一番上の兄は三週間前から入院中。結果的に三男の自分が喪主となった今回の葬儀でした。
兄弟全員が無事だったらどうなっていたんだろうと、それもまた考えてしまったり。
それでも自分しか参列しない葬儀だったとしたら、そっちの方が残念だったかもなぁと。
これで良かったんだと、いまは思っています。
母のPCからは溜め込んでいた写真を頂いてきました。
数年前からピアノに飾っていた大きな写真も見つけたり。
9年前の横浜でイトコの披露宴の夜に撮った一枚です。誰が撮ったのか謎ですが、母は引き伸ばして飾っていました。
なかなか嬉しそうな顔していました。
これは自分も何処かに飾っておこうかと。プリントアウト何て何年ぶりだか。
コメント
ホント、嬉しそうな顔だね♪(^-^)
この1枚の写真だけで分かるじゃん!
恨んでるわけない☆
Pどん
ありがとうございます。
なんだかこの一枚に救われちゃって。
言葉も説明も、もう無用だよなぁって。
妙なもんだよネ。
たまたま、今回のドタバタ期間に久し振りにPどんからコメントがあって、何度も励まされてしまい。ほとんどその通りだった。
トラピストのクッキーお土産にまだ残してあるんだけど、届けようが無くて。