桜花

特攻兵器「桜花」の存在は幼少期から知っていました。
自宅には何故か軍事関連の乗り物の本が少なくなく。
そんな本の中でもゼロ戦は特別な扱いだった記憶です。
しかし、自分の目に光っていたのは桜花でした。

動力はロケット、前方に積んだ重量の多くは爆弾。大きな飛行機にぶら下げて発射。
航続距離は僅かで、役割も機能も体当たりして敵艦を沈没させるのみ。

本格的な大戦手前かもなこの頃、無人の兵器が進化しただけ、まだマシなのかなぁとも思ったりです。
しかし、平凡に暮らしていた庶民を巻き添えにするのは、やはり駄目だと思います。

二十年くらい前だったか、終戦記念日の辺りに松本零士さんが監修する太平洋戦争のオムニバスなアニメが放映されていました。
サイドカー付きな陸王(ハーレーのコピーなバイク)がボロボロな状態でも寄せ集めな部品で再生されたり、なかなかリアルで。
戦闘機のパイロットがコックピットで操縦する場面は、とてつもない振動も伝わる映像で。松本零士さんも、ここまでリアルに表現出来る現代アニメの出来に驚嘆していました。
そして、桜花も登場。
母機から切り離された直後のロケットエンジン点火、この加速感がまたリアルでした。

普通の人は、あの加速を味わう機会など無いのだろうなぁと。
数年前に、何処かの遊園地のジェットコースターが問題になったりしましたが。あまりの加速ですと、実際に骨を折るそうで。
自分の世代ですと80年代のバイクブームで、それに近い感覚を普通に味わえたりでした。
当時はレーサーレプリカ全盛期で、特に2st250ccの加速は異常でした。

都心から外に向かう日光街道、夜の千住新橋の手前で赤信号に引っ掛かると、横一列に並んだ単車はシグナルGPそのもので。
自分の単車も750クラスも、2st250ccの加速には到底太刀打ち出来ず、遠のく奴等のくテールランプを見つめるばかりで。
当時の出光の2stオイルなCMも「ロケット少年達へ」でした。まさしくなフレーズです。
最高速ではなく、加速の威力でした。
全く、馬鹿な時代でしたが、明るい未来がありそうな平和な時代でもありました。
しかし、あの長い上り坂で観えない橋の向こうが渋滞していたら、奴等はちゃんと停まれたのか謎で。そこまで考えていたのかも謎で。

Wikiで「馬鹿」について検索していた今宵。
その解説の中に桜花が登場しました。当時のアメリカ軍は、特攻兵器の桜花を「BAKA」とローマ字で呼んでいたそうです。
確かに馬鹿げています。ロケット少年と一緒です。

Wiki内で桜花の記事を読んでみると、色々と発見が。
桜花を吊るした大きな飛行機は、その重さ故にノロマで、桜花を切り離す前に撃墜されがちだったそうです。
そんな記事を読み進めて更に興味深かったのが、終戦直後のパイロット達の生き様です。
厚木基地で解散を受けたパイロット達は、残った飛行機で出身地への帰還が命じられたそうです。
初めての自由だったかも知れず。富士山を幾度も周回してから帰路に向かう飛行機とか、故郷の上空を低空で旋回する機もあったそうです。
これは、ドラマ化されても良い場面だと思います。(その記事はこちらにて)

桜花を切り離した大きな飛行機のパイロットは、上の立場だったそうです。
切り離した後は帰還する規定だったのですが、部下が自分の命令で殉職したのに生きて帰れるワケ無いだろうと。
義理人情とは別次元かと。

桜花の発案者だった人物は、終戦直後にゼロ戦に乗り「東方洋上に去る」と言い残して消息不明。
責任を感じて何かしらの始末に向かったのだろうと。
しかし、意外な続きがあったらしく。
戦後しばらく経たないと、実態はやはり判らないものだなぁと。

以下はWikiからの引用です。

『8月18日、発案者の大田正一中尉は、茨城県の神ノ池基地において零式練習戦闘機に乗り込んで離陸、そのまま行方不明となった。基地の机に「東方洋上に去る」と遺書を残した。大田は、戦時に桜花搭乗員となるべく異例の取り計らいで偵察員から操縦員への転換訓練を受けたが、「適性なし」と判断されていた。また、桜花の使用が中止された7月頃、大田は方々に再開するように説いて回ったが、終戦まで再開されることはなかった。大田は新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて以来、不遜な態度をとるようになっていた上、桜花搭乗員の人命を軽視する発言も行っていたため、報復を恐れていたという説もある。また、戦犯の認識を勘違いしていたという説もある。殉職として大尉に昇進しており、1956年11月20日の呉地方役員部作成内地死没者名簿では「航空殉職」「戸籍抹消済」となっている。しかし、大田は漁船に救助されて改名して生存していた。その後も大田は元同僚の前に現れており、稲田正二は戦後間もなく何度か会って身の上話を聞いたという。金華山沖の洋上で北海道の漁船に拾われ、北海道知事に戸籍を新しく作ってもらったと話している。その後、生涯無戸籍のまま1994年に死去した。』

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