綴ってしまうか

ここしばらく、悩み事がありました。
ここに綴っても仕方が無いことなのですが、このBlogの何割かは日記ですし過去にも同じような問題があり、あのときはどう対処したかと読み返すことは稀にあり。
当事者もこのBlogを読むことがあるそうですが、まぁ気にしないと。

何を悩んでいたかというと、母への対応についてです。
自分が退職する旨の電話連絡を母にした際、母は最近体調が良くないとの話が。
具体的に何が悪いのか聞いてもなかなか答えてもらえず。
話の断片では精神的に安定していない様子でした。
だったら、数日くらい帰省しようか?と自分から答えたのですが、部屋が散らかっているから嫌だとのこと。

既に八十代を迎えた母は、養父と色々あって十年以上一人暮らしです。
公的支援で暮らしているそうです。
実家は冬の雪も多い北海道、一人暮らしには無駄に大きい一軒家は雪かき等地域の方の手助けで。
まぁ、この季節はそんな心配も無いので数日の帰省で何か良くなればと思ったのですが。
だいたい、自分は実家にかれこれ十五年は帰省しておらず、普通に考えたら親不孝な息子でしょう。

数日経ち、某SNSのメッセンジャーにて母からの便り。
「直ぐに連絡をくれ」とのこと。
メッセージに気付いたのは数時間後。
何事かと電話してみると「いつ帰ってくるの?」と。
「だって、この前断られたでしょ」と答えても、埒のあかない会話が続き。
高齢だし、少しボケが進んだのかな?で済ますことに。

しかし、どうにも様子がおかしいので、数年ぶりで親族に電話してみることに。
親族に母から伝わっていたのは、自分が実家に帰ってそのまま暮らすのは迷惑との趣旨でした。
全く話が違います。
だいたい、自分には都内に持ち家があってローンもあと四年。北海道は就職難で都内の方がよほどチャンスに恵まれていて。住居を移す理由など何もなく。
母は物忘れだけでなく、話の解釈も崩れているかと。

今年の三月くらいに自分は携帯電話の番号が変わっています。
だからなのか、母から電話が掛かってくることもありません。電話番号は何度も伝えているのですが。
某メッセンジャーで連絡してくるのも、電話番号がちゃんとメモ出来ていないからなのか。
ただ、電話よりはメッセンジャーで文字に残した方が、過去の会話を本人も確認しやすいメリットがありそうです。
なので、電話よりもメッセンジャーの方を優先するようにしました。

そして母から届いた次のメッセージは「帰ってきてほしい。同居で」との趣旨。
一時帰省まで嫌がっていて、同居は迷惑との誤解まであったのに、何じゃこりゃ。

曖昧に返信したら誤解を招くだけなので、上記の住居を移すつもりはない理由をハッキリ答えました。
母はその返信にショックを受けたようで、更に傷ついたそうで。
何というか、現実と離れたストーリーを勝手に作ってしまっている様子です。
今回に限ったワケでは無く、更にエスカレートしています。

これでは一時帰省したところで、会話にもならないでしょうし、恐らく何の助けにもならないでしょう。
母は精神面が壊れている自覚も時々あるそうで。
数日迷っていたのですが、肉親として伝えました。
病識があるのなら、一度精神科で診てもらったら?と。

やはり母は憤慨し、自分とのやりとはもう止めると。
だったら、そうしてくれた方が自分も助かります。
ここまで、早朝からのメッセージも数知れず、本来は仲の良いお友達とやり取りするような内容ばかりでした。
どう返信したら良いのかも迷える内容が、ほとんど一方的に続き。

しかし、翌朝には何事も無かったようにメッセージが幾つも届き。
駄目だこりゃ。

過去の記事にも綴ったのですが、自分は三人兄弟の三男坊。二人の兄は十年以上前に母と縁を切っています。
母は兄のお嫁さんに無理難題を押し付けたり、それが脅しに近かったり、追い詰められたお嫁さんが旦那である兄に相談したら兄も怒り、母に問うと「そんなこと言っていない」と。
しかし、しばらくしたらお嫁さんに「どうして言っちゃうの!」と。
他にも色々とあったのですが、自立して生きている兄の家族に対して、母は干渉し過ぎでした。

母については、気の毒な面もありました。
最初の結婚相手は優秀な方だったのですが、アルコール依存症に陥って生活も困窮し離婚。
数年間は水商売等々で三人の小さな息子を育てていました。当時の母の苦労は自分も忘れてはいませんし、子供を置いて逃げることも結果的に無く。
再婚相手の男性はしっかりした方でしたが、暴力的で浮気癖も酷く。何だか理不尽な日々。
自分はそんな抑圧的な家庭が嫌で、早くここから離れたいと。

義務教育が終わる時点で家を出る策を色々と講じたものの、上手い策は無く。
地元の高校は奨学金とアルバイト代で通いつつ、更に策を練って卒業と同時に実家を離れました。
大学は夜間で昼は仕事に励み。やっと手に入れた自由ではあったものの、まぁ楽ではなく。
ここを卒業したら、やっと周りと同じスタートラインに立てると自分に言い聞かせ。

しかし、大学時代も実家とはゴタゴタがありました。
自分はまとまった収入があったにも関わらず、親は自分を扶養家族に入れていて。
控除で儲けていたそうです。それに気付いた自分は毎年送っていた在学証明書を拒否しました。バレたら自分の職場にも迷惑が掛かりますし。
しかし、それが養父の怒りになり、危うく勘当される場面も。
養父からは脅しのような手紙まで届き。
自分、何も悪いことしていないのに。

卒業の年に自分は大手企業の就職が決まっていました。
保証人が必要だったりで、全て水に流すことにしました。

とりあえず、自分の兄弟三人はちゃんとした就職をして、貧乏な過去だったものの三人とも大卒で、世間体は悪くない何年かが続いていました。
自分の方は、学生時代からの経験で幾らでも無理の効く身体なのかと勘違いしていたのか、無理が災いして入社七年目にして過労とストレスでパンクしかかり。お腹がやたらと痛く、通勤もままならいと病院へ行ったところ胃と十二指腸に穴が。
しばらく休みをもらって再始動したものの、すぐに再発。このままでは慢性になるらしく、あえなく退職。

会社の寮には居られなくなり、次の住まいを考えていたところ、実家でまた騒動が。
養父は単身赴任で実家を離れ、母は更年期障害で荒れているそう。ましてこれから厳しい冬の十月末。
当時の自分は残業代でけっこうな貯金も貯まっていましたし、新車も手元にあり。
身体を落ち着かせるのに一年くらい働かなくても問題なかったですし、実家に一時帰省することに。少しは親孝行も出来るかと。

これが、また楽ではない日々でした。
荒れる母は全てを疑う性格に変貌していて。
気分転換に車で時々ドライブに連れだしたものの、そこでも難癖だらけ。
これだったら、実家になど戻らず、東京でアパートでも借りていた方が気も休まっただろうに。

春を迎える頃に養父の単身赴任は終わりました。
その頃には母の状況もかなり安定していました。よく分からないのですが、家族の料理を作るだけでも生活リズムは整うのか。
自分の役目も終わったので、家を出ることに。
半年程でしたが、冬は何とか乗り越えられました。
自分も仕事が決まりましたし。

養父はその後も浮気を繰り返し、結局母とは別れることに。
母は東京で暮らしていた兄(次男)の家で同居する流れになっていたのですが、兄のアルコール依存症が発覚し、母から突然の辞退。
母を迎えられれるように色々と尽力していた兄は大いに怒り。兄のお嫁さんも母の酷い態度に困っていたりで、兄は母と絶縁。

実家で暮らし続ける決意の母は自分の扶養家族に入れなさいと。
自分は独身でしたし、扶養家族が居るのはその後の結婚の支障になるかもと心配でした。
当時の彼女に聞いてみたところ、全く気にならないワケではないけど、仕方ないんじゃない?と。
母は扶養家族にしてもらえるのが当然だと思っていたようですが「そんなのを気にする女は馬鹿だ!」と大笑い。
流石に自分も頭にきて、扶養の件は断ることに。兄からも「お前はお人よしだな」と笑われていたばかりでした。

もう一人の兄である北海道で暮らす長男の方が、母とは先に縁を切っていたのかな。ちと順番が思い出せません。
兄のお嫁さんは、やはり酷い言葉を受けていたらしく。
お嫁さんを守るためには賢明な選択だったと思います。

二番目の兄はその後アルコールの量が更に増えて、42歳で他界しています。自分はその兄の借金で連帯保証人にもなっていたので、当時はちょっとしんどかったです。
残るもう一人の兄とは時々連絡を取っていますが、母の件についてはノータッチ・ノーコメントを貫いています。今回の件でも「お前は自分のことを優先しろ」と。
確かにそうです。

ひょっとしたら、自分の方が兄達より先に母とは離縁していたのかも知れません。
ただ、三人の息子から全て離縁というのは何だか情けなく。
最後の順番に残ったのが自分でして。自分まで縁を切ってしまっては、他の親族に迷惑が猶更掛かりますし。
他の親族は真っ当な生活をしていますし。

子供の頃に母が事あるごとに言っていたセリフはこうでした。
「私はあなた達に何も出来ないけれど、老後は面倒掛けないから、あなた達がやりたいことは自立してからに」と。
全くその通りになっていません。勝手なものです。

母については、友人も少なそうです。
一時期は市内の文化活動で交友範囲も広かったのですが、あの性格が災いした部分もあったのでしょう。
友人が居ないというのは、こんな問題にもなってしまうのか。
自分も友人が多い訳では無いのですが、信頼出来る友人は何人もいます。

ここしばらく悩んでいた中、たまたま観掛けたニュース記事で、これ以上考える必要も無いかな?と思えたりでした。

実家の騒動は何年か置きでありました。
特に二番目の兄が他界した際は、巻き込まれた親族も多く。
母は兄と縁を切っていたのに、兄の残された家族への接触を幾度となく試みて。当然拒絶されていましたが。
縁を切るというのはどういうことなのか、母も分かってはいるのでしょうけれど、道理よりも毎度その場の感情の方が勝ってしまうようです。冠婚葬祭にも呼ばれないし、墓参りだって許されないのです。
晩年の兄は「母のせいで」と口にする機会が多かったです。気持ちは分かるのですが、もう四十代で自立して生きているのに、他人のせいにするのは良い思考ではなく。結果、残された兄の家族も母を相当恨んでいました。
そして、養父と離婚した母は、養父の泣き寝入りでまた籍を入れ直しています。更にまた離婚して今に至るのですが。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という言葉が生きているように、周りも相手にするべきでは無かったなぁと。理由がどうであれ夫婦の世界です。

今回は親の健康面の問題なのですけれど、上記のリンクの著者の方が場数も多く、専門家として悟っている様子でした。
虐待の経験までは自分も無かったのですが、記事上で当てはまる場面は幾つもありました。

幸い、この十年は比較的落ち着いていたのですが。
原因が痴呆なのか何なのか分かりませんが、あの悪い面が益々加速している様子です。既に高齢なのだからと、許してしまっていた自分も良くなかったかも知れずです。
ともかく、自分は冷静でいなければ。まともに対応していたら、振り回されるだけなのも分かっていますから。

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