春の浪人生

自分は浪人の経験が無く、人づてで色々聴いています。
成績が良かろうと悪かろうと、狙った大学の試験の点数が足りなければ落ちるもので。
試験までの努力はあっても結果に結びつくかは運もあったりします。体調だったりヤマが当たったり。
一浪目の春を迎えると、模擬試験の結果は一気に上がるそうです。恐らく、合格圏の上の方がどっさり居なくなるからかと。
それで胡坐をかいてしまうと、数ヵ月の内に現役勢がメキメキ力を着け、試験日当日にドングリとなったり。

高校の同級生の最長記録は四浪で千葉大学というのが居ました。
結果的には良かったのですが、一浪まででしたら大学卒業時はまだバブルが終わっていなかったので、就職には困らなかったと思います。
その後どうなったかは自分も知りません。

随分前にも綴りましたが、自分の場合はどうだったかというと。
家は裕福でなく、高校も奨学金で通っていました。北海道で暮らす三人兄弟三男坊。上の二人は優秀で北大と早稲田に通っており、自分は特にパッとしない成績。
大学に行かせてもらえるとは思っても居なく、アルバイトに明け暮れる高校生でした。
ただ、そのアルバイトで社会を色々観れたお陰で、高校卒業までの一年間で「やはり大学に行くべき」と思った次第です。
浪人は許されなく、自分で生活費と学費を稼げる環境で入れる大学というのはかなり限られました。

地方の国立大であれば合格圏なのもありましたが、自分でお金を稼げる環境など無く、消去法で行くと都内の夜間大学のどれかとなりました。
国公立の夜間と私立の夜間の併願で考えていたところ、センター試験の直前に次男から「お前みたいな馬鹿が併願など許さん。俺たちは単願で入った」と脅しが入り、安全パイの私立だけ受けた次第です。(実際二人の兄は単願でした)
今では想像つかないと思いますが、当時の受験環境はかなり厳しく、ランクに関わらずどの大学も受験倍率はけっこうありました。
夜間でも知名度が高い大学は他の昼間大学に受かっても流れてくるのが実際に居ました。

運良く自分は希望の大学に入れました。試験直前の成績の追い上げは自分でも凄かったと思います。これぞ現役パワーです。
何より、落ちた時の恐ろしさは感じていましたし、落ちた先のことなど何も考えずで。
現役で希望の大学に受かった連中は、実際我を忘れてな部分が多かったかも知れません。高校の薄暗い廊下でモゴモゴと独り言を唱えながら歩いている友人は何かを暗記している様子でしたがこれが可笑しくて。追い越しざまに「しっかりしろ!」と顔を引っ叩いてやったら、「おぉ」と我に返っていて。普段なら引っ叩き返してくるのに。
新年から卒業式までは高校に通う必要が無かったのですが、その間に精神的に病んでしまった奴も居たらしく、後から知ったりでした。
なので、こんな張り詰めた状況を何年何ヶ月と続けられる浪人生というのは、そんなに居ないんだろうなぁとも思えました。
誰しも底知れぬ力を秘めていたりします。しかし、置かれた立場と天秤にかけたり、自分が知る身の程も忘れてはいけなく。夢だけはどんなに大きくても構わないし許されますが。

実際に大学へ通ってみると、想像とは違う部分がけっこうありました。夜間の学部だと「青春の門」のようなハングリーな奴等がひしめいているイメージだったのですが、周りのほとんどは昼間部を落ちて流れてきたのばかりで、特にお金に困っているのは少なく。
それでいて一般教養の科目では「こんなのも知らないの?」と思えるのが多く。当時棘だらけだった自分は平気で「君達とは毛並みが違うんだよ」と漏らすほどで。勿論冗談も何割か入っていましたが本気で言っていた部分もありました。
二浪して日大を蹴って入学した同級生は自分の兄と同い年。そして都内の立派なマンションからソアラ(高級車)で通学とか、なんじゃこりゃでした。当初、自分はこの同級生に相当失礼な対応をしていて(途中でお互い理解していまでも付き合いは細々とながら続いています)。
所謂「嫌な奴」です。しかし、中には自分より捻くれていた奴も居て、ハッとしたりでした。気を付けねばと。
入学してからは成績などどうでも良く、ともかく最短期間で効率よく卒業出来れば良いと思っていたので、何処まで手抜き出来るか?な姿勢でした。
現役で試験慣れしていたので、学業面での苦労は少なかったです。気の毒だったのは社会人入試で入ってきた連中でした。
自分とは真逆で試験慣れしておらず、ブランクもあり、主要科目の基礎が完全に抜けている方も多く。特に英語と数学は気の毒で、微分積分を知らなければ解けない物理とかも。
自腹で教材も学費も捻出していたので、勿体ないから講義だけはちゃんと出席していましたが、公務員やしっかりした仕事に就かれていた方は仕事が忙しく、来たくても来れない状況でした。
自分の場合はこれまた運良く大学の職員に就けていて、勤労学生向けの立場だったので残業はほぼゼロでした。
しかし、昼と夜の両立は決して楽ではありませんでした。実験のレポート作成は徹夜になりがちでしたし、翌日には仕事も待っていて。留年したら解雇な立場もあり、バランスが重要でした。

途中経過を綴ると無駄に長くなってしまいます。途中で自分の成績はドングリでした。毛並みも何もあったもんじゃ御座いません。
入学当時は遥か先だった出口も何となく観えてきて。夜間の五年制で、入学当初は卒業の割合がけっこう低かったらしく。色々な事情で退学者も多かったそうです。
自分の代はこの通り夜間学生らしからぬ学生だらけだったので、ほとんどの同期が五年で卒業出来ていました。
家庭も子供も持った警察官だった方が、卒業後に地方の高校の教師になったり、凄い人生を歩んでいるんだなぁと思える方も居て。
今から思うと、生意気でしかなかった自分は同期からも職場の大人達からも「若いから」で許されていた部分が多かったんだと思います。
時はバブル。しかし何の恩恵も無い自分でしたが、大学卒業時の就職だけは楽させて頂けました。

高校時代の同級生の話に戻ります。
北海道の浪人勢が都内の大学を受験する際は、自分の部屋に泊まり込むパターンがありました。
三浪とかしていると、もう緊張感も抜けてしまう様で、本人も堕落した日々を嘆いていました。都内で何校も併願しているのに、試験日に自分の部屋で一日中ぼんやりしていたり。
自分が何か言ったところで変わるワケでも無いのは分かっていたし、お説教みたいなマネもしたくなく。しかし「これだけお金かかってるのに、勿体ないじゃん」くらいは言いました。
浪人を重ねる連中は、考えてみたらお金に困っていないのばかりでした。
しかし、長いジレンマから抜け出せぬ連中だったので、お金があるからといってあれが「羨ましい」とは思えなく。
立場上、目立ったことは何も出来ず、地下生活のような日々に観えてしまい。どっちが幸せなんだろう?と時々考えてしまいました。

自分の部屋に泊まり込む連中の中で羨ましい部類も居ました。
現役でソコソコの国立大に入り、連休に入ると海外旅行に向かう連中でした。アジアやヨーロッパやアメリカが目的地でしたが、出国や入国の辺りで自分の部屋を宿泊地にしていて。
全く持って羨ましい。ただ、帰国後の話を聴くのが楽しみでした。財布を現地で盗まれた等の危険な思いをしたのはヨーロッパが多かったそうで。
そして、ヨーロッパから戻る連中は総じて足が臭かったです。これは何故か共通していました。

自分が四年次だったときは、就職活動で泊まり込みに来る連中も居ました。
中には明け方まで一緒に飲み続けてしまい、面接が最悪の結果となり恨まれてしまったこともありました。(あれはスマンことをしてしまったと未だ反省しています)
五年次には成績優秀だったH君が北大の大学院に進み、学会の発表で自分の部屋を宿にしたことも。(現在は某国立大で助教だそうです)
H君には「俺みたいなドブネズミのような生活を送っているのとはえらい違いだよ」と弱音を吐いたりしてしまいました。
しかし、H君からすると「俺だって好きな道を歩んでみたかったし自力でやってみたかった」と。一人っ子で親の期待を相当背負っていて。そしてH君は生まれながら片目の視力が無いハンディを背負い、スパルタ教育で育っていて。
大学院に進んだ中には教授とウマが合わず、退学してしまった真面目な奴も居ました。中学生時代から優秀で名が通っていたのですが、退学で親からは勘当され消息不明になり。
そして、当時の多くの友人が、いま何処で何をしているのか自分は知りません。
(ここまでは過去にも似たような話を幾度か綴っています。以下の話題は何年振りかな..)

自分はずっと一人暮らし。身内には現役の学生が現在居るハズです。
十年近く前に亡くなった次男の子供達四人です。
兄が亡くなるまで、自分は兄の事業の連帯保証人で色々とありました。
兄についてはアルコール依存症の末期で、最期の期間はコミュニケーションをまともに取れなく、もう諦めていました。
まだ小さな四人の子供達だけが心配でした。自分が連帯保証していた兄の借金については結果的に保険で賄えましたが、その部分も結果が分かるまでは生きた心地がせず。
兄の家族は実家と折り合いが悪く、兄の葬儀に参加出来たのは兄と一緒に暮らす家族と自分だけでした。
その後自分とも途絶えています。実家が随分と迷惑を掛けてしまった以上、自分からの連絡は取り難く。
なので、その後どうなっているかは風の噂の範囲です。

兄の長男も幼少期から優秀で、六大学には進めたようでした。中高一貫の進学校に当時通っていて、トップの大学を目指していたのですが、あの環境で上出来です。
次男は昔からお人よし。何処で教わったのか謎なお笑い芸がお得意で。
三男は自分と一緒で何も期待されていない雰囲気でした。二人の兄からオモチャにされてしまう場面とか目にしていると、何だか昔の自分と同じだなぁと。
抗議の意思で、トイレに逃げ込んで鍵を掛けてしまったりするそうで。自分も全く同じことを幼少期にしていて(途中で家族が音を上げます)。
兄の葬儀の場面で三男は、沈んだ雰囲気の周りを明るくしようと努めていて。優しい子でした。
一番下の長女はまだお人形さんのように小さく、お母さん思いの甘えん坊でした。四人目に生まれた待望の女の子。

君達に会うのはいつも楽しみだったけど、四人も居るとお小遣いは楽じゃなかったんだよ。
兄の長男が生まれた頃からお祝いとかお小遣いとか自分は渡していたのですが、そのほとんどは将来の学費に向けて貯金に回していたそうです。しかし、末期の兄はそれさえ使い込んだそうで。
なので、最期のしばらくは長男に四人分渡し「好きなもん買え。何も残らなくていいから奪われる前にパッと使え。分かってるよな?」と笑いながら伝えていました。
冗談として伝わらなかったのか、笑ってもらえなかったのが悔やまれます。最悪の場面の冗談は案外重要で。

その三男もそろそろ高校卒業だよなぁと時々思い出していました。幼少期の成績がどうだったか何て、気にしたこと無く。三男とはそんなもんで。
奨学金を借りてまでbe動詞から教わるような馬鹿大に通うようなことが無ければ良いなぁと思ったり。まぁ、これは余計な心配というより、余計なお世話でした。
今年に入り知ったのですが、勘違いかも知れませんが、三男はどうやら日本のトップの大学に一浪して昨年入学していた様子です。
これは自分でも驚きでした。その世代でそうそう居ない珍しい名前で、写真に面影は残り。

自分の現役時代に比べてどの大学も入りやすくなったようですが、トップの大学は自分も目指そうなんて思ったことは無く、自分の高校から進学出来たOBは歴代でも極僅か。
自分の元父も同じ大学を目指していたそうですが、一浪しても駄目で、併願していた二期校の小樽商科大学に進んでいます。早稲田の商学部も受かっていたそうですが東京に出るにはトップの大学以外許されなかったそうで。
当時二期校だった小樽商科は北大の文系よりランクは高かったとも聞いているのですが、元父本人は早稲田に行きたかったそうで、色々とドラマがあったそうです。
亡くなった兄はそんな早稲田に現役で入学していて。子供達はそんな話を聴いていたのかどうか知りません。しかし、三代目で目標達成となったようです。
世の中、大学は幾らでもあるのに、何の因果ぞよ。

兄があのような亡くなり方なのもあって、四人の子供達に自分は当時伝えていました。
「勉強はソコソコ出来れば十分だから、何より健康的に生きてほしい」と。
三男はこのオジサンの言葉を忘れてしまったのかなぁ。

勿論、嬉しい部分は幾らでもあります。家族の支えや本人の努力もあっただろうと。
ただ、自分の家系はアルコールで人生をドブに捨ててしまうパターンが多く、元父も兄も同様に大学に入るまでに運だか何だかを使い切ってしまっているようにも思えて。
人生まだまだ長いので、ずっと先の目標を立ててくれたらいいなぁと思っています。
(迷惑掛かるかもしれないので、この文章は消すかも知れません。だた、ずっと気にはしているんです)

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