39年前の今日

39年前の今日は札幌へ高校の制服を買いに伺っていました。
当時暮らしていた千歳では扱っているお店が少なく、選べる種類も少なく。
入学予定だった高校は男子が詰襟の学ラン、女子はセーラー服が指定で。
校則は非常に緩く、入学後も服装チェックのような場面は一度も無かった記憶です。
ただ、自分は極太のズボンとか短い丈とかがカッコイイと思えない性質だったので、限りなく普通の制服を選ぶことに。

ちょっと失敗だったのは、身体に合い過ぎた制服を選んでしまい。
一年も経たないうちに背丈も伸びてしまい、以前に兄が使っていた制服を拝借することに。
兄は前年の高校転入で詰襟の制服からブレザーに変っていまして。

前年の引越し前の埼玉で兄は地域で最も優秀だった高校に通っていて、あの高校は私服での通学が許されていたものの入学のタイミングでは一応制服を新調していました。
兄があの制服を着たのは入学式だけだったのかも知れません。
思い返すと、学力面で優秀な高校ほどその辺の自由度は高かった様子です。常識感覚があるからか、あまり奇抜な服装の生徒は生まれないというか。

自分の通っていた高校は制服を着るルールだったものの、ぶっ飛んだスタイルなのはほとんど居なかった感です。
兄が通っていた様な私服も可であれば、更に便利だったのかも知れません。
ただ、そのルールはファッションショーにもなりがちだそうで、普段着のセンスも問われてしまうそうで。

自分としては詰襟の制服が何故か好きで。ともかくどんな場面でも許されますし、便利なもので。膝や肘がテカテカになってしまってもバンカラ風でそんなのもまた好きで。
何より、あの高校の校章を付けていたら、市内で一目置かれる傾向でして。
当時の社会はいまより緩く、特に北海道は更に緩く、高校生の飲酒や喫煙にかなり寛容でした。大人達も若かった頃は羽目を外す場面はあったでしょうし、大らかな風潮で。
あの校章のお陰で、大目に見てもらえた場面も少なく無く。

兄が通っていた高校のブレザーを着ていると、世間の目は厳しかったそうです。
自分なんかより遥かに優秀な兄だったのですが、転入先に希望していた道内で一番優秀な高校を落ちてしまい。
仕方なしに地元でかなり偏差値の低い高校に通っていまして。
2歳年上だった兄は最後の1年間真冬の雪の中でも自転車で通学していました。どうやら、自分と同じバスに乗りたくなかったらしく。
あの高校には自分が1年通っていた中学の同級生も沢山通っていましたが、むしろ性格の良い生徒が多かったのに。世間の目は冷たかったそうで。

そんな兄も大学の受験勉強だけは必至で、早稲田の第一文学部に現役で入学しています。
あの高校からの進学は恐らく最初で最後だったかと。自分の通っていた高校からも、早稲田に受かる生徒など滅多に居なく。
兄も転入ではなく普通の入試であれば札幌南高校へ余裕で入れていたのかと。
ともかく、一緒に高校生だったあの1年は、出来の悪い自分としても不思議な一年間でもありました。兄に対しても何だか申し訳なくて。

話を戻します。
39年前の今日をどうして覚えているかというと、札幌から帰宅したところ、もう一人の兄から叔父の訃報を聴いてしまい。
今日はお世話になった叔父の命日でして。
亡くなる一週間ほど前にお見舞いに伺ったばかりでした。
神奈川の大和で暮らしていた叔父、自分の幼少期は母子家庭だったもので父親以上の存在でした。幼い自分達にあれほど優しかった大人は居なく。
三人兄弟の末っ子で一番出来の悪かった自分にも優しく。母は子供の成績に無頓着だったものの、兄達の成績に比べてパッとしなかった自分は叔父から心配の種だったらしく。

34歳で亡くなった叔父の死因は癌でした。
晩年の数ヶ月は神奈川の病院に入院したままで。自分としては今すぐにでもお見舞いに駆け付けたかったものの、引越し直後の北海道からは遠過ぎまして。
ただ、受験を控えていた自分だったので、それが片付いてからにしろと。
そんな事情もあり、学区内で当時一番優秀とされた高校を目指すことになり。
最後に少しは喜んでもらいたく。

合格発表の当日に「青春十八きっぷ」を握りしめ、まだ雪の残る北海道から神奈川の病院へ走りました。
病棟で再会した叔父からは、生まれて初めて褒められてしまい。
「でかした」と。

これが辛く。堪えきれずトイレに逃げ込みどれだけ涙を流したことか。
これまで通り馬鹿にされてしまった方が、良かったのに。

ずっと傍に居たかったのですが、高校入学を控えた自分は色々と準備もあり。
あの時は、それまで長く暮らしていた埼玉の友人達とも再開していました。僅か一年ぶりの再会だったのに、えらく懐かしく。
叔父曰く「俺だったら会いにいくのに、どうして行かないんだ?」と。
全くその通りなのですが、優先順位が異なりました。
しかし、いま思うとそこまで考えていてくれた叔父でして。

叔父の訃報を聴いた当日は、何故か全く涙が流れずでして。勿論悲しかったのですが。
あの時泣き過ぎてしまったのだか、既に覚悟が出来てしまっていたのだか。
ただ、ずっと忘れられない存在のままです。
母も気付いていた様ですが、自分は叔父に似てしまった部分があるそうでした。
叔父も若い頃は無茶な真似が多かったそうで。

現在の自分は叔父よりも20歳も年上になってしまいました。
しかし、叔父は自分の中でずっと大人のままです。
お酒も煙草も単車も全部叔父に教わっていました。
生きていたら相談に乗ってもらいたいことが沢山ありました。自分の駄目な部分は昔から知っていた叔父でしたし、恥かしい質問なんて何も無く。

そんな思い出もあり、エイプリールフールだというのに出鱈目はその後なかなか言えずでして。
叔父の葬儀はお金も時間も無く参列出来なかったのですが、結果的に行かなくて良かったと思える出来事が。
葬儀の夜に酔った祖父が暴れてしまったそうでして。どうやら酒癖が悪かったらしく、それが原因で一部の親族から縁を切られてしまったそうです。
孫の自分達にはとても優しかった祖父なので、意外でしたしそんな場面は観たくも無く。
そんな思い出もあり、昨年の母の葬儀では絶対にそうならない様に気を付けたり、ちょっと心配したりで。

あと10年は長生きしてほしかった叔父なのですが、もしそうだったとしたら自分は泣き付いてばかりだったかも知れずでして。
特にその後数年は実家との折り合いが悪かった自分でしたし。ただ、叔父を頼ってしまったら何時までも独り立ち出来なかった自分だとも思います。

本日はたまたま庭のチューリップがほとんど開花してくれました。
外はとても暖かく。
もう春なんだなぁと。

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