地元の千歳市にて美味しいラーメンを提供し続けた「突撃ラーメン」さんが、昨年の暮れに閉店されていたそうです。
Webで検索したところ、店主さんが他界されたそうです。
ご冥福、祈っております。
高校卒業までの四年間を過ごした千歳で、突撃ラーメンは自分にとっての御馳走でした。
当時、勤勉な部分もあった自分は、放課後の図書館帰りに突撃で頂けた味噌ラーメンに、その日の充実感を味わっていました。
大学受験が近かった寒い季節は、鼻水垂らしながら頂いたものです。
とっくに常連になっていた学生服の自分に対して、いつも律儀に注文を聞いてくれた店主と、それ以外の会話をしたことがありませんでした。
まぁ、いつでもまた来れると思っていましたし。
上京してからの自分は、舌が肥えてしまったのか、たまに帰省しても突撃に足を運ぶ機会が少なかった記憶です。
ただ、二年前の出張の際は、自然と足が向かいました。
出張のついで、実家へ寄るべきか迷えていたときでした。
実家ではちょっとしたゴタゴタが続いていまして、自分が会ったところで何一つ解決できないし、いま会ったところで逆効果だとホテルの狭い部屋で考えていました。
当時と比べて変わり果ててしまった中心街を、夜な々々歩いてみたところ、突撃ラーメンは残っていました。
ここだけは、昔とかわらないな..。
SUKIYAKI: 学生時代、よく食べにきてたんですよ
店主: 何年前だい?
SUKIYAKI: 二十年くらい前ですよ
店主: 街も随分変わっちゃったでしょう
SUKIYAKI: シャッターの降りた店が増えましたね..
店主: ここも、随分とお客さんが減ったよ
SUKIYAKI: 味はかわってないですよ
店主: いまの若者の口に合わなくなったのかな
SUKIYAKI: また来ますよ
そんな会話でした
千歳に限らず、地方都市は何処も似たような状況なのかと思います。出張で地方を訪れる度に思います。
何が原因で、どうしたら良いのかなんて、自分にもまだ分かりません。
それが分かったところで、自分に何が出来るのかもよく分かりません。
「あの頃のままであってほしい」という願いが誰しもあるように、自分もそう想っています。
追記:
Photoshopで修正したピンボケでない突撃の味噌ラーメンはこちらにて。
あぁ、また頂きたい。
コメント
野菜たっぷりの山盛りラーメンと
「突撃ラーメン」というアグレッシヴなネーミング
う?ん、たまりません。
ところで店舗写真の左側の窓に
「ラーメン3杯食べたら」と書いてありますが
3杯食べると何があるんでしょう‥‥
気になります。
ひげフレディーさん
確かに、書かれていますネ..。
うろ覚えですが、「三十分以内に三杯食べたら、タダ」「五杯食べたら、一年間タダ」みたいなルールだった記憶です。
突撃の味噌ラーメン、かなり味が濃かったのですが、野菜の量で見事に中和されていました。
嘗て、あの一角にはラーメン屋さんと本屋さんとレコード屋さんが並んでいて、放課後にハシゴしたものだったんですヨ。
もやしが大盛りでおいしそう!
背景に見えるアルミの灰皿とマッチ箱が懐かしい感じ。
昔、通ってたお店がなくなると、
悲しいですよね~
私も、先日、よく行ってた駅前の中華料理屋が
突然潰れてて、悲しかったです><
最近、ラーメン食べてないな~
食べたい(u??u??)
くみこさんへ
無事に退院されて、嬉しいですよ。
ゆるりと参りましょう。
あやきちさんへ
小さなコンビニの隣辺りにあったラーメン屋さんでしょうか?
時々、自分も頂いていたんですよ。
ラーメン屋さんって、思い出の存在になりがちなんですよね。
はじめまして。
突撃ラーメン、ふと思い出して検索したところたどり着きました。
あのご主人亡くなったのですか・・・。
奥様も交代でお店に出られていましたが、やっぱりご主人の
ラーメンが美味しかったです。
私も小さい頃から良く食べに行っていたので、最近閉店したという
噂を聞き、気にしていた所でした・・・。
ラーメン3杯で無料、5杯で一年間無料、
総理大臣が来ても貸し売りはお断りします、でしたよね。
カレーラーメンが大好きでした。
ご冥福を祈ります・・・。
おかさんへ
コメント並びに目に留めて頂いて、ありがとうございます。
あのラーメン屋さん、沢山の人の思い出が残っていそうですよね。
自分は満席の店内を一度も見たことが無く、毎度哀愁な気分で味わっておりました。
日々冷え込むこの季節は尚更だったかも知れません。
カレーラーメン、ずっと気になっていたのですけれど、ついに一度も口にしませんでした。誰かが頂いていると、そそられる香りだったのに。
口惜しいです..。
お店の奥のテレビを嬉しそうに眺めている奥さん、自分もよく覚えていますよ。
奥さんが作ったときのラーメンは、ちと家庭的な味だった記憶です。
ふと思い出させるお店、無口な店主さんもニンマリしていることだと思いますよ。
千歳の突撃ラーメンを思い出して検索かけてここにたどり着きました
突撃ラーメンについて私の思い出は20年以上前に自衛官だったころ千歳駐屯地に配属になったのですが、その頃一週間に一度、駐屯地の外に出て500円を持って突撃ラーメンの味噌ラーメンを堪能するのが唯一の楽しみと同時に習慣になっておりました。
ご主人は本当に無口な人だったのを覚えております
当時突撃ラーメンのすぐ近くにジョイフル大和というパチンコ屋がありまして
ときどき暇つぶしに遊びにいくことがあったのですが突撃のご主人も暇な時間帯なのでしょうね 稀にパチンコ台の前に座ってるときがありました。わたしはご主人と会話もしたことがなかったのですが、隣に座るとわたしの顔を覚えていてくれたんだと思いますがパチンコの玉をわたしの台に入れてくれてスッと帰ってしまったことがあります。
もう二度と戻らない私の青春時代の思い出です
もうあの味噌ラーメンを味わうことはできなくなったのですね
一杯500円で私の孤独を癒してくれたラーメンの味と寡黙だけど、どこか暖かいご主人の人柄が大好きでした ご冥福をお祈りいたします
おっさんさんへ
コメント頂き、ありがとうございます。
やはり、味のあるご主人だったのですね。
自分も幾度かパチンコ屋さんで観掛けているんですよ。
お店の前にあったパチンコ屋さんとかで。
当時の千歳は街の中心部も明るく、名前に負けない千歳だったと思っています。
あの頃に戻れるなら、千歳に戻ってもいいよなぁ、なんて時々思い出しています。
流れ者の街に乾杯中です。
ガァ
当時の千歳は米軍基地があり その恩恵にあずかろうとして 全国から流れ者が住み着き町を形成していました さびしい名残りがすこしあるようですが、、
sayitさん
コメント、ありがとうございます。
帰りたくなる理由がなかなか見つからなく、既に五年以上経っていて。
しかし、もりもとのピロシキは恋しいです。
ガア
こんにちは。突撃ラーメンの検索で見つけました。
70年代の小中学校、千歳に住んでおりました。
週末に千歳デパート?だったか、市場のような所に家族で買い出しに行き、帰りによく寄った突撃ラーメンの味が今でも忘れられません。
カウンター越しに、無言で汗しながらラーメンを作っていたご主人のお顔、今でもはっきり覚えています。お亡くなりになっていたんですね。時の流れを痛感致します。
店構えやカウンターの赤い色、懐かしいです。中山千夏さんがご来店された時のイラスト入りサインが壁に飾られていました。3杯食べたら云々とういうのも、壁に画鋲の文字になっていた記憶があります。
私の中では、札幌ラーメンは突撃ラーメンの味だなぁ・・
あ、あともりもとのパンは’チョコリング’が大好きでした。今はもうないか・・
キムコさん
こんにちは。
コメント、ありがとうございます。
寒い季節ほど、思い出してしまう突撃だったりします。
検索したところ、全国に突撃系のラーメンが誕生している様子です。ルーツは千歳で。
千歳の突撃の画像、Web上でも案外残っていないみたいで、普段の生活で見慣れている場面ほど、後になってから貴重なんだなぁと、また思う今宵です。
こちらの画像も、出張で訪れる機会がなければカメラを持ち出さなかったと思います。
70年代の千歳というと、千歳デパートも建ったばかりでしょうし、明るい未来が中心街に灯っていたのかなぁと思います。
甘い系の食べ物は、銀行のあるバス停前のタイ焼き屋さんが好みでした。あと、ミスタードーナツ(こちらも無くなってしまいましたが)。
せめて、もりもとはしっかり残っていてほしいです。
ふと、突撃ラーメンで検索して拝見しました。私も40年以上前の記憶です。親に連れられて食べた味は、忘れられません。
父は5年前に他界、私も50半ばでいまは遠く九州住まいです。
千歳デパートもなつかしい。レストランのカレーは、ルーが専用の金属の器に入っていた。
もりもとのパン、クリームの入った細長いパンが大好きでした。ビートルって名前でしたっけ、あのお店が全盛の頃、親の転勤で千歳を離れて43年。遠くぼやけてきた記憶がリアルに感じて、心地よい思いができました。ありがとうございました。
とおるさん
こんにちは。コメントありがとうございます。
寒い季節は温かいラーメンが恋しくなります。自分もこの記事を最近読み返したばかりでした。
千歳デパート、もりもと、ビートル101、どれも懐かしいです。
ビートルでは高校生の頃にボーイのアルバイトをしていました。そこでローカル番組の取材にで来ていた坂本九さんのサインを頂いています。日航機墜落の前年でした。
ここの写真も既に十年以上前。時の流れは早いものです..。
突撃を名乗るラーメン屋さんが全国に何軒かあるようです。千歳の味が源流らしく、一度は伺ってみたいです。
千歳で生まれました。
まだ米軍がわずかですが駐留して、左ハンドルの軍用車が走っていました。
幼少期の商店街の思い出は、おもちゃの「フルキミ」、書店の「井上書店」「あおい書店」、レコードは「博信堂」「金栄堂」、お焼きといえば「甘太郎」(特に白あん)といったところでしょうか?
贅沢といえば、クリスマスの第一マーケットの「鳥の丸焼き」、もりもとの「かめパン」「ハムフライランチ」でしょうか?
ラーメンは、「正ちゃんラーメン」、「王将」(今も健在)、そして忘れられない「突撃ラーメン」にだったと思います。
カレーラーメンか味噌か、いつも悩んでいたと思います。
残念でなりません・・・。
しかし、千歳市内で突撃のカレーラーメンにかなり近い味の店があるのをご存じだろうか?
ANAホテルの近くの「百番」というラーメン店です。
店は30年以上やっている老舗で、味噌は鳳龍系に近いかもしれません。
味噌カレーラーメンを試してください!
わたくしは「思い出しました」
らいぽんさん
古い記事にコメント頂き、ありがとうございます。
既に綴ったかも知れませんが、もりもとさんは当時から大好きでした。
丘の上の高校の昼休み、あれ食べたい。しかし、学校ではルール違反だったようで、先生に時々見つかっては怒られたり。昼休みでも外に出ては駄目らしく。
それでも懲りず、ピロシキ頂いておりました。どうしてこんなに美味しんだろう?って。
当時の自分、ビートル101でボーイのアルバイトもしていたんですよ。
毎年暮れ頃、もりもとさんのパーティーがあり、自分より年少な方がお客さんだったりしました。
自分も裕福な家庭だったワケではないのですが、それよりも厳しい環境の若手が働いていた様子でした。
経営者の方、相当な人物だったのだと思います。
千歳に立ち寄れる機会がありましたら、百番さん寄らせて頂きますネ。
哀愁の千歳、返信遅れてしまい、申し訳ございませんでした。
寒い冬がまた近づいていますネ。
真町の自衛隊官舎に住んでいた小学校1〜2年生の頃、父親に連れて行ってもらったのが「突撃ラーメン」だった。
父親は突撃ラーメンファン?だったらしく、外で食べるラーメンと言えば、必ずここだった。
味噌ラーメンのモヤシが多かったのを冒頭の写真で思い出すことが出来た。
このビジュアル、現代の「メガ盛り」とかに一脈通じるものがあるね。
正直味は覚えていないが、もう一度食いたい。3杯食べるのにも挑戦してみたい。確か汁まで飲み切るのが、条件じゃなかったっけ?
ルノワール佐藤さん
確かにあの盛り付けは当時珍しかったかもしれません。
野菜の量はリンガーハット並で。
三杯は恐ろしくて挑戦出来ませんでしたよ。スープを飲み干すルールだった記憶です。
中学生時代は大盛でもキツくて、同級生のS君は余裕で平らげていましたが。
やはり寒い季節に頂きたくなる突撃です。
初めまして。
52歳の野郎です。
25年以上も前の話になりますが、僕も千歳には数年間住んでいたことがありまして、突撃ラーメンにはよく通ってました。
あの寡黙な店主殿が亡くなられたなんて今更ながら驚いております。
アーケードを歩いていると、なんか、総理大臣に言われても立退かない!みたいな書き込みがあって、それにひかれて通うようになりました。味噌ラーメンは旨かったです。
実は僕は3杯食べたら無料のチャレンジメニューに挑戦しましたよ!
河津落しさん
コメントありがとうございます。
三杯チャレンジされたのですネ。素晴らしいです!
学生時代の自分には大盛でもキツめで、ラーメン二郎に慣れた全盛期でも突撃のは二杯が限界そうでした。
この記事を綴ってからそろそろ十年経ちそうです。頂いているコメントの多くは千歳の生活が数年間の様子です。自分もそうでした。
何処にでもありそうで、なかなか無いタイプのラーメン屋さんだったのかなぁと考えていたりです。
これまでのコメントによりますと「総理大臣が来ても貸し売りはお断りします」だそうです。
SUKIYAKIさん、返信ありがとうございます。
貴殿の『突撃ラーメン』さんの書き込みを拝見してからすごくノスタルジックな気持ちになりました。
人々に強烈な思い出を残したところを見ますと、一見、普通のラーメン屋さんのようでも、普通ではないラーメン屋さんだったんですね。
僕が3杯のラーメンに挑戦にしたのは、初めて店を訪れた時でした。当時は大食いに自信があったもんですから挑戦したのですが、1杯目のラーメンを見て目が点になりましたよ。モヤシがてんこ盛りだったので、これを3杯だと思うと、心の中で『しまった!』と叫んでしまいました。
しかも、1杯を10分以内のペース配分も頭によぎったり、、、
河津落しさん
近頃の物騒な日々、ノスタルジック感に自分も浸かり勝ちです。
自分が初めて伺ったのは引越し直後の中三の頃でした。野球部の友人にそそのかされて注文した大盛が、全くの見当違いで。
今思うと、大食いのカットオーバーだったかも知れずです。
今一度味わいたい突撃さんです。
二十歳から三十歳の10年間(1988~1998)を千歳の航空自衛隊で勤務していましたが、休みの日の食事はラーメン好きの私にとってかなりの確率で『突撃』に行っていました。
北海道には色々な美味しいラーメン屋もあったのですが、『突撃』だけは私にとって飽きの来ない満足出来る味だったのです。
(どなたかも書かれておられましたが、ご主人と奥様とでは少し味が違っていたのを懐かしく思い出しました。)
転属で北海道を後にした後も、知人が北海道に行ってラーメンを食べるなら『突撃』に行ってみなさいと紹介したりしたものです。
いつか北海道に帰って『突撃』の味噌バターラーメン大盛を食べる事を長年楽しみにしていたのに………、心から残念で仕方ありません。( TДT)
KOZさん
コメントありがとうございます。
航空自衛隊勤務だったのですネ。自分の通っていた中学高校は自衛隊関係者と空港関係者が過半数を占めていました。
そんな中、航空自衛隊系の親を持つ同級生は優秀なのが多かったです。
過ごされた十年間、その時期ですと千歳の中心街が寂しくなってゆくタイミングと重なっていたかも知れません。昔は千歳デパートを中心に明るい風景でした。年中クリスマスの飾りのような記憶です。
自分が最後に突撃へ伺った際は、あのアーケードで突撃くらいしかお店が残っていなかったような。今でも元気に残っているのはモリモトさんくらいなのかなぁと。
突撃でラーメンのトッピングは試したこと無かったんですよ。お金のない学生だったので、せいぜい大盛まででした。バターも試してみたかったです。
お店が畳まれてしまい十年少々経ちますが、検索してもWeb上に写真がほとんど無く。身近過ぎる存在程、写真に残っていないもので。
また食べたいラーメンです。私は千歳生まれで、自衛官の父親がここのラーメンが好きで小さい頃よく食べに来たそうです。恐らく生まれて初めて食べたラーメンはここでしょう。その後父の転勤で九州に行き更に13歳のときに帯広に転勤があり、また食べるチャンスを得ました。家族で食べに行ったとき、おじさん(店主)は私の小さい頃の事を覚えていてくれました(嬉)。そして社会人になったとき帯広から自走で食べに行ったこともあります。
おじさんが亡くなって店を閉めた話を千歳のいとこから聞きました。
本当に残念です。でもいとこが奥さんとポスフールで会ったときにはレシピがあるのでまたラーメンを作れると言っていたそうです。
十勝の〇〇乳業に息子さんが勤められています。(高校の同級生の後輩!)突撃ラーメン再オープン期待しています。なーんてね。
店内の看板に、「総理大臣がきても、店をゆずらない」と書いてましたね。
バンコクにいながら 時々思い出す あのカレーラーメン。 麺固めで頼んでたなー
バンコク在住さん
コメント、ありがとうございます。
自分もプーケットの旅行ついでで、バンコクには二度ほど寄らせて頂いています。熱帯のゆるい雰囲気が懐かしく。
千歳も流れ者の街なイメージでしたが、バンコクも近いものを感じます。
偶然ですけれど、自分も身内が帯広方面在住で幾度か伺っています。車ルートの峠が怖かったり、JR経由での風景の美しさに惚れ惚れしたり。
自分が初めて頂いた突撃は北海道へ引っ越した直後の14歳の頃でした。友人に連れられて一緒に注文した大盛、勿論美味しかったのですが途中からなかなかシンドくて。
突撃ラーメンの再オープン、自分も期待したいですヨ。あの味は他店で未経験で。。
そうそう、「総理大臣が来ても貸し売りはいたしません」と店内にありましたね。
小学校卒業式の日に、友達と食べに行った思い出があります。
おもちゃの丸商、千歳デパート、突撃ラーメン、タクトン学生服のベニヤ、博信堂、金栄堂、フルキミetc.
あの頃の千歳は活気がありました。
hideさん
コメントありがとうございます。
アーケードの入り口にペットショップか玩具屋さんがありましたネ。あの辺りではお店の宣伝がスピーカーからも流れていた記憶です。
銀行の向かいの電気屋さんが同級生で、たい焼きをお土産によく遊びに行ったものでした。隣の本屋さんでアルバイトした思い出も。
千歳があのままだったらなぁと。
ご返信ありがとうございました。
千歳を離れて30数年経ちますが
実は先日、千歳に帰省していて貴殿のサイトにお邪魔しました。
アーケードの入り口左が玩具の丸商でした。
「丸商~、丸商~、おもちゃの丸商では…」と宣伝放送が流れていたのを思い出しました。
「有楽通り」から「ニューサンロード」になり、いつの間にかアーケードも映画館も無くなり寂しくなりました。昔は「まる専」や向かいの「ビートル」なんかも賑わっていましたね。
hideさん
自分が千歳を離れたのも同じ時期でした。あの宣伝放送は意外に耳に残りましたネ。
ビートル101は自分の高校時代のアルバイト先でもあったんですよ。サンデー九の取材で坂本九さんのサインを頂いたりしました。
昭和55年に千歳に赴任して、しばらくしたら外出できるようになり、千歳のアーケード街の入り口近くのパチンコ屋で遊んだ後、腹を空かせて、ラーメン屋に入ったら、さっきまで隣で打っていたオヤジがラーメンを作っていた。髪のちょっと長い痩せ男の店主と優しそうな奥さんと二人でテキパキと調理していた。いつも頼むのは白菜の山盛り味噌ラーメン。
寡黙なオヤジはラーメンをカウンターに乗せると、イスに座りタバコをうまそうにのんでいた。
奥さんはキビキビと動いて、ダンナのケツを叩くような働き者だった。
もう40年近く前の話。
また、たべてみたいな、オヤジさんの白菜大盛り味噌ラーメン。
ジーボさん
コメントありがとうございます。
お話のディテールがとてもリアルで、あのパチンコ屋さんの名前は何だったかなぁとか考えてしまいました。
検索してところ、ジョイフル大和だったかも知れません。中高生の頃、親に連れられて幾度か打っていました。フィーバーすると親から連絡が入り、手伝いに行かされたりで。
ゆるい時代でした。
奥の小さな座敷以外は余計なモノをほとんど置いていない店内、写真で見ると灰皿だけはテーブル席に山積みで、これも時代を感じてしまったりです。
Twitterでしばらく前に突撃ラーメンについて検索したところ、店主さんの髪形について指摘されている方がいらっしゃって、失礼ながら吹いてしまいました。
プレデターの様だったと。
やはり、冬が近づく季節になるとあの熱々のラーメンがまた恋しいです。
[…] 昨日,別居人さんと車で買い物に出かけた時の会話。「今後数年後,仕事の関係と家庭の事情で札幌へ引っ越す必要があるかもね」…と言うので,「いやだよー」と言いました。というか,別居人さん,ここ数年の引っ越しばかり生活に嫌気がさして,「もうしばらく引っ越しはしたくない」と言っていたのにな。で,「将来的にも千歳に住み続けたいし,札幌は肌に合わないから住みたくないなぁ」と言ったら,「そんなに地元が好きって,あなたソフトヤンキーなの?」と言われました。※正しくはマイルドヤンキーのことか?そんな折,アサヒビール園千歳店が閉店になるという情報。コメント欄で,その昔このビルに「まるせん」というデパートが入っていたことを思い出しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%9B%E3%82%93「まるせん千歳店」は,1970年にオープンとのこと。かなりおぼろげですが,子どものころ親に連れられて行った記憶が蘇りました。閉店したのは,いったいいつ頃だったんだろう…。ネットで少し調べてみたら,「まるせん」だけではなく,自分が子どものころにあったお店のことを懐かしむブログがいくつか見つかりました。昔からあるお店の沿革からも,当時の街の様子が垣間見られます。ニューサンロードの入り口には丸商玩具店がありました。https://blue.ap.teacup.com/plamic/330.html「3杯食べたらタダ」の突撃ラーメン。一番弟子が伊達で味を引き継いでいるとか…。https://sukiyaki.s333.xrea.com/?p=2242クボノスポーツ店https://ameblo.jp/tdc8020/entry-11987433076.html始めて硬式野球のグラブを買ったのは,錦町1丁目のスポーツハウス千歳店でした。クボノスポーツ店は第二空団の中にも店舗があったらしく,うちの父親が割引がきくと言っていました。千歳スポーツは,中学校時代の野球部でお世話になりました。学校指定ジャージも扱っていましたが,たしか大半の生徒はニューサンロードにあった「しょうわ」さんで扱っていたジャージを着ていました。千スポ派はそれだけでイジメられていたような気がします。ダボダボのジャージの裾を3つ折りくらいにして着こなすのが,イケてる生徒の証でした。ビートル101もデパートでした。千歳で結婚式の披露宴といえば,ここか日航ホテルだったように覚えています。https://blog.goo.ne.jp/hsssajp/e/179db35876a0d2ff11f96b4cc07691cbhttp://www.e-fujiya.com/history.htmlhttp://hair-sumire.com/history.html千歳に住んでいたことがある,「CHAGE and ASKA」のASKA氏も,「まるせん」や「ビートル」が青春だったと書いていました。https://www.fellows.tokyo/blog/?id=1324https://www.fellows.tokyo/blog/?id=884千歳の昔の写真を残しておられる方の貴重なサイトもありました。http://www8.plala.or.jp/hamagashira/chitose-gallery/index.htmlうちの母親の子ども時代の話に,「冬の下校時には千歳小学校から当時住んでいた緑小学校の近くまで,馬橇(ばそり)の後ろに友だちとコッソリ載せてもらった」「その日のそりのおじさんによって,見てみぬふりをしてくれたり,降ろされたりだった」というものがあります。昔の写真からは,当時のそんな牧歌的な街の風景が伝わってきます。 […]
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